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10年後、AIに仕事を取られないための教育
十年後(2030年頃)には、AI(人工知能)が職場に本格的に進出すると言われています。

そうなると、工場のライン管理はもとよりオフィスの事務職まで、
いわゆる機械作業(ルーチンワーク)は全てAIに取って代わられるのは間違いありません。
流通・運輸業に至っては、すでにAIによる自動運転の実用化が目の前に迫っており、
タクシー・バス・トラック運転手という職業は2030年を待つことなく、なくなってしまうかもしれません。
それ以外の完全には自動化できないような職種であっても、
AIがどんどん職場に入って来ることは間違いありません。
すでに医師のような高度な技能を必要とする職種でさえ、患者の診断にAIが使われ始めているのですから。

では、人間の雇用が無くならない仕事とは何でしょう?

経済学博士の井上智洋氏の「人工知能と経済の未来~2030年の雇用大崩壊~」によると、

 creativity(創造性)系の職種 :小説を書く、映画を撮る、発明する、研究して論文を書く、新しい商品の企画を考える 等々

 management(経営管理)系の職種 :工場・店舗・プロジェクトの管理、会社の経営 等々

 hospitality(おもてなし)系の職種 :介護士、看護師、保育、インストラクター 等々

の3つだと言います。

言い換えると、

自分で問題を捜し、答えを導き出す能力 (creativity)

情報を収集・総合して最適な解決策を見つけ出す能力 (management)

相手の状態や感情を読み取って臨機応変に対処する能力 (hospitality)

の3つの能力を備えているかどうかで、仕事があるかどうかが決まるということです。

3つの能力のいずれも持っていない人は、職を失ってしまう、あるいは、
そもそも職に就けない、そういう時代がやって来るということです。

しかし今この国で、これらの能力を伸ばす教育が行われているでしょうか?
もちろん、答えはNOです。

残念ながら、今なお多くの方が、勉強とは、知識を頭に詰め込んで、
クイズ形式の問題に効率的に正解を書けるようにトレーニングをすることだと勘違いなさっています。
しかし、そういう勉強はまさにAIが得意とするもので、同じやり方で人間は勝てるわけがありません。

では、国(文科省)主導の教育改革によって、可能になるでしょうか?
やはり、答えはNOでしょう。

なぜか?

 確かに、入試改革(センター試験の終了および新しい試験制度の導入)によって、
求められる学力自体はこれまでとはまったく違ったものになります。これまでのように、
ただ解答の手順を知っているだけではダメで、本当に内容を理解していないと解けない問題になります。
これも来るべきAI時代を見越してのことでしょう。

しかし残念ながら、この国にはそのような真の学力を養成できる教育制度がありません。
全員に同じことをさせる横並びの教育では、
creativityやmanagement能力の基礎となるoriginality(独自性)を伸ばすことはできないからです。
そもそも公教育というのは、子供全員に対して一律の教育を提供すること、つまり、
一人一人の相違や独自性(originality)に目をつぶることによって成り立っているものなのですから。

少なくともhospitalityは「おもてなしの文化伝統を持つ」日本人の得意とするものだから、
「教育制度に頼らずとも大丈夫なんじゃないか」と思われるかもしれません。
しかし、それはもう昔の話です。接客業においてすら、マニュアル対応しかできない人のなんと多いことか!
よく気がつく人、気が利く人というのは、今の日本ではもはや絶滅危惧種と言ってもいいかもしれません。
実際、今私の知る気の利く人というのは、ほとんどが日本出身の人間ではありません!

今の日本人がこんなあり様なのは、人の道を忘れ、思いやりを失くし、
損得勘定でしかものを考えなくなってしまったからでしょう。
hospitalityの高い人というのは、心の温かい人間であり、私利私欲しか頭にない人間とは対極の人ですから。
(詳しくは、拙著『子どもに勉強させる前に親が知っておくべき7つのこと』参照)

 公教育に期待できないとすれば、塾ならAI時代を生き抜ける能力を養成できるのでしょうか?
残念ながら、これも難しいと言わざるを得ません。
なぜなら、利益を最優先とする企業体として教育にコミットすれば、
講師が優秀であればあるほど、学校と同じように数十人の生徒を一度に教えなければ利益が出ないからです。
昨今は、個別指導を謳う塾も増えましたが、指導するのはアルバイトです。
優秀なプロの講師を1~2人の生徒につけるなんて経済的にどう考えても不可能だからです。
当然、彼らはマニュアルに沿った指導しかできませんから、大した教育効果は望めません。
(詳しくは拙著『流されない行き方』参照)

新風館には、3つの能力を伸ばす教育ノウハウがあります。

我々は、四半世紀に渡り、少人数対話型の授業を行うことによって、
塾生の学力だけでなく一人一人の性格まで十全に理解し、
全人格的な成長を促す教育を貫いて来ました。
他塾には決して真似の出来ないノウハウを我々は持っています。

皆さんには、この3つの能力を伸ばすために一体何をすれば良いか分かりますか?

管理教育を行って来た大人にも、また、それを当然と受け止めて来た親御さんにも、子供たち自身にもわからないでしょう。
利益を追求するために教育(知育)の効率化を追求して来た我々の同業者の方にもきっとわからないでしょう。

我々はこれまで、この国に蔓延する風潮、つまり、
終身雇用を前提とする学歴信仰と勉強はそのためだけにあるものという固定観念に苦しめられて来ました。
奇しくも、AIの進歩によって、我々の提供する教育だけが教育と呼べる時代が来ようとしています。
だから自信をもって言いましょう。

「今、3つの能力を伸ばす教育を提供できるのは我々だけである」と。

国語特別の授業 その1
久しぶりの更新です。
今の子供たちは言葉を使ってものを考えるということができません。
もう随分昔から、どうやってものを考えさせればいいかということで頭を悩ませてきました。
というのも、高校入試までなら、一般の人が考えるような、いわゆる勉強(問題の解き方を覚える)で何とかなるのですが、
その先のことは言葉を使って自分でものを考えられない人には到底無理だからです。
うちは、大学受験まで教えていますので、そういう状態ではそもそも授業にすらならない。
そこで、数年前から「国語特別」という講座を作って、様々なことをテーマとして取り上げ(塾生からのリクエストのこともあります)、
私が自分で学んだ知識を基に塾生たちと討論しながら進める授業を行っています。

外部の方にはなかなか説明しづらいので、今日は、私の講義録をアップして、
どんなことをしているか一例をご紹介しようと思います。以下、その内容です。

無知の功罪

まず、知には以下の4つの状態がある。

 ①自分が知っているとわかっていること:有知
 ②自分が知らないとわかっていること:知無知
 ③自分が知っていると思い込んでいること:錯覚知
 ④自分が知らないということさえわからないこと:不知無知

多くの人間は③の状態であるにもかかわらず、
自分が①だと思い込んでいる場合がほとんどであるということが心理学のテストで確認されている。
このことは、身近なもの、たとえばトイレ、携帯電話(スマホ)、電子レンジ、テレビ、コンピュータ、自転車、自動車などについて自分が本当に理解しているのかどうかを考えてみればわかるだろう。
確かに我々はそれらを「知っている」けれども、その仕組みを理解している人はどれだけいるだろうか。
試しに誰かにそれらの仕組みを説明をしてみるといい。
我々の「知っている」のほとんどが実は「知ったかぶり」で、錯覚にすぎないことが分かる。

どうしてこんな錯覚が起きるのか。
実際にそれらを自分が立派に使いこなしている(?)と思っていることが、
そのもの自体の仕組みを知っている、理解しているという思い込みを生むためだ。
知っているのは、その使い方に過ぎない(それも完璧ではない)という事実を、
我々はすぐに失念してしまう。
人間というのは、物事について必要十分だと自分が感じられる範囲のことを知っただけで、
そのもの全てを理解し、知っているものと思い込んでしまうという困った傾向を持っているわけだ。

錯覚知を生むもう一つの原因は、
人間の知そのものが、実は個人に属するものではなく、
集団(社会)に蓄積されているものだということにほとんどの人間が気づかないことによる。
どんな偉大な発明も、多くの先人が積み重ねて来た研究成果と協力者なしではなし得ない。
あらゆる分野で高度に専門化が進んだ現代では尚更である。
ノーベル賞の受賞者など、多くの発明や研究成果は個人の業績として多くの人に
記憶されてしまうために、どうしてもこの事実が忘れられがちになる。
しかし、無から何かを生み出せる人間などいないわけで、
この意味では、有史以来、人類が挙げて来た成果という成果はすべて、
先人たちの積み上げて来たものに、ほんの少し上乗せをしたものに過ぎない。

しかも、偉大な発明やその応用技術によって支えられている現代生活は、
ほぼすべての人間が日常的に利用している技術についてすら、
一人の人間が全てを理解するのは不可能なほど高度化、複雑化しており、
「全てのことを知っている(理解している)」人間はいないし、そういう人間になるのも不可能だ。
したがって、人間の知は、「自分が知っている(理解している)」ことよりも、
「どこかに知っている(理解している)人間がいる」というものの方が圧倒的に多いことになる。
我々の生活の大部分は、「自分が知っている」ことによってではなく、
「ほかの誰かが知っている」ことによって支えられているわけだ。
自分の命は自分以外の人間の知によって維持されていると言い換えてもいい。
これは、人間という生物が生来持っている社会性という特徴が、
知という側面にもはっきりと当てはまることを示している。

つまり、人間の知とは、他者との協力関係があって初めて有用なものとなる集合的なものなのだ。
これを集合知と言う。

問題は、自分は無知で誰かの知に支えられて生きているにも拘わらず、
それがあたかも自分の手柄であるかのように思い込んでしまう、我々の傲慢さにある。
この傲慢さが高じると、「自分の無知を認め、理解しようと努める」人間も、
「自分の知を人間社会のために役立てる」人間も、いなくなってしまう可能性がある。
不知無知な人間は自分が全知だと勘違いし、有知の人間はそれを全て自分の手柄だと思うからだ。
そうなると、社会の発展は停滞し、
生活を豊かにしてくれるような、有用で新しいものは何も生まれて来なくなる。

こうしてさらに社会全体の無知が進むと、この世に理解している人間など誰一人いないような、
多くの未解明のことについても、誰かがすでに知っている(理解している)ものと信じるようになる。
残念ながら、我が国においてこの現象は顕著である。
「森羅万象のうち科学で判明していることはどのくらいか」という問いに対し、
中高生が答えるパーセンテージは驚くほどの高さに上る。
「ほとんどのことは誰かがすでに知っている」と感じているわけだ。
これは、ほとんどの中高生が④の状態にあるという証左でもある。
彼らは、無知に無自覚で、有知に至る道程がどれほど険しいものかを知らないし、
何かを本当に理解することがどれほどの努力を要することかもわかっていない。

何かについて有知にたどり着いた人間(①)は、自分が如何に無知かを知っている(②)。
自らの無知を自覚した人間は傲慢でいられるはずがない。傲慢の反対は謙虚である。
自らの無知と向き合った人間は謙虚になるに決まっている。
謙虚であればおのずと、他人(社会)の知に対して敬意を払うはずだ。
決して独善的なものの見方を人に押し付けたり、断定的な口調で話すことはできないはずである。
自分が無知であることにすら気づかない(④)、あるいは、
知っているつもり、分かっているつもり(③)が人間を傲慢にする。
①②の人間と③④の人間、どちらが社会の福利向上に貢献するかは明白である。

知が個人でなく人間集団(社会)に属し、
それによって個々の人間が生かされているという事実に目をむければ、
社会に貢献できる有知の人間の方が無知な人間よりも偉いに決まっている。
その方が社会に貢献できるのだから「知っている方が、知らないより偉い」。
逆に、自らの無知に気づかず、他人や社会に向かって要求だけをする人間が
社会にとってどれほど害悪をもたらすか。
たとえるなら、全員が交代で漕いで進んでいる船(=社会)に、
自分だけは、まったく漕がず、漕ぐ気もない人間がいるようなものだ。
そういう人間は、船からつき落とされても文句は言えまい。
そういう人間が排除されずに増えれば、船は一向に進まなくなるし、
それまで一生懸命漕いでいた人間も、どんどんやる気をなくしていく。
そうして誰も漕ぐ人間がいなくなれば、船は遭難し、みな死ぬことになる。

この比喩は、まさにこの国の現状そのものである。
「知っている方が、知らないより偉い」
こんな当然のことが分からないまま育つ子供がどんどん増えているこの国の現状はあまりに危険だ。
昨今では自分が知らないという事実を偉いことであるかのように言う、倒錯した子供まで増えている。
これは、子供を大切にするという我が国の伝統が負の方向に働いた結果だが、恥ずかしいことに、
今や自分の無知を棚に上げて偉そうな態度をとるのは、子供だけではなくなってしまっている。
そして、そういう無知な人間の増加と反比例するように人口は減少し始め、
出生率も国力も低下の一途をだどっているのはただの偶然であろうか。

「恥ずかしいことに」と言ったが、これはかつての日本人なら当然の感覚であったろう。
欧米などと比べ、伝統的にこの国の人間の知的水準が非常に高かったのは、
「恥を知る」という教え(文化)でもって無知を戒めて来たからだろう。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺があるように、
かつては、「知らないことは恥ずかしいこと」であった。
残念ながら、今は馬鹿が大手を振って生きる世の中になってしまった。
それで果たしてこの国の人間は昔よりも幸せな人生を送っているのだろうか。
もし幸せな人生を送っている人が多いとすれば、
出生率が下がり続け、人口が減り続ける理由は何だろうか。
また、今この国に蔓延している閉塞感の正体は何なのだろうか。
この国の明るい未来を思い描けない人が増えたこと、つまり、
今を幸せに暮らしている人が減ったことが、これらの大きな要因だと考えるのは間違いであろうか。

この国に明るい未来をもたらしたい人、残りの人生を幸せに暮らしたいと思う人は、
まず自らの無知を認めるところから有知への第一歩を踏み出すべきだし、
人の親として子供たちの現状に危機感を抱くのであれば、
子供に謙虚さと恥という道徳律を教える努力をしなくてはならないはずだ。

しかし、この現状を知ったうえでも、やはり無知の誘惑に逆らえない人間も多いだろう。
というのも、恥知らずなことを甘受しさえすれば、無知でいることは何の努力も要しないからだ。
端的に言えば「その方が楽」だからだ(自分は船を漕がないのだから楽に決まっているが)。
知らないということさえ知らなければ(④不知無知であれば)不安になることもない。
それで、心の広い誰かが自分の代わりに知る努力を続けていてくれさえいれば困らないかもしれない。
もちろん、自分がコミュニティに何の貢献もしないことを他の人間が許容してくれる限りは、だが。

ただし、この道を選択をするのであれば、たとえ人から馬鹿にされても決して怒ってはいけない。
自ら馬鹿であることを積極的に選んだのだから。
偉そうに他人に要求することもできまい。自分は何の貢献もしないのだから。
ただ社会によって生かされている、生かしてもらっていることを自覚しなくてはならない。
謙虚になれとは言わないが、遠慮くらいしろ、ということだ。
自分の主張を表明する権利はあっても、自分の要求を通す資格はない。
有知の人間の言うことを素直に聞いて、自らの命を委ねていればいいのだ。

前段後半の主張は論理的に筋は通っているが、実は非常に危険な考え方である。
実際、この国の政治はこういう形になりやすい(すでになっていると言ってもいいかもしれない)。
これをテクノクラシーと言って(デモクラシー=民主主義ではない)、
エリート(東大卒の官僚や政治家)が全てを牛耳って、
国民には家畜のように黙って従うしか選択肢がないような政治の状態を言う。
これは民主主義(デモクラシー)の自殺である。
実はこれ、この国がかつて日中戦争~太平洋戦争へと突き進んだとき、すでに歩んだことのある道だ。
国民が自らの無知(自らの国力、アメリカの強大さ、国際社会の常識)に気づかず、
すべての判断を軍部のエリート官僚に委ねた結果があの破滅だったということを我々は知るべきだ。
当時の国民が無知ではあったが、無恥ではなかったことを考えると、
その両方に身を委ねつつある今は、さらなる破滅を招いても何ら不思議はない。

本来、民主主義の最大の利点は、民衆の英知を結集できるところにある。
自分だけの知識、一人だけで考えているのでは、よい判断ができない場合でも、
一人一人の知が互いの無知を補完し合うことによって最適解を出す可能性が高められる。
だからこそ民主主義が成立した近代以降に人類は地球史上類のない速さで豊かになった。
これが集団の知、つまり、集合知の最大の利点である。
現代は、インターネットを始め、集合知に誰もが容易にアクセスできる素晴らしい時代である。
にもかからず、ただ楽をしたいというだけで無知に身を委ねることは、
民主主義を否定し、今の豊かさを放棄すると表明するに等しい。
そういう人は、今ある文明の利器(トイレ、携帯電話、電子レンジ、テレビ、コンピュータ、自転車、自動車)を取り上げられても文句は言えない。家畜同然の生き方を自ら選んだのだから。

家畜のように生きることをよしとしないのであれば、有知を目指すほかないが、
有知を目指すうえでは、何も誰より優秀であろうとする必要はない。
自分の能力に見合った範囲で有知となり、その知をもって社会に何らかの貢献できればそれでよい。
有知の人間であることの証は、謙虚さと有知の人間に対する敬意を持っていることである。
謙虚さと敬意に欠ける人間は、無知かつ無恥な家畜であることは間違いない。
確かに家畜は楽かもしれない。
自らの無知と向き合う努力などしなくても、エサをもらって命をつなぐことはできる。
無恥でさえあれば。

無恥であること、無知であることを自らに許すのであれば、
今当たり前のように手にしている自由と、自由をはじめとするあらゆる権利を、
いつ奪われようと文句は言えないということを、我々は肝に銘じておかなくてはならない。

こう考えれば、無知を自覚し(②)て有知(①)に向かうのが人として正しい道であることに疑いはない。
しかし、選ぶのは君たち自身だ。強制はできない。
強制はデモクラシーを殺し、テクノクラシーに向かう誤った道なのだから。

このように、民主主義を実現し、守っていくのは困難を極めるということが、
知という側面からの考察によっても明らかになる。
これは古代ギリシャの哲学者、ソクラテスがすでに指摘した事実であることを我々は忘れてはいけない。

弱さの構造
 心理学的には、人はみな自分が平均よりやや上の人間だと思っていると言う。おそらくそうしないと自身を価値ある存在だと信じることができず、心の平安を保てなくなるからだろう。しかし、もしそうやって得た心の平安と引き換えに、成長の契機を放棄することになるかもしれないとしたら、多くの人はどう感じるのだろうか。

 もちろん、自分が平均よりやや上の人間だというのが事実なら問題はない。しかし、現実には全ての人間が平均以上などということは数学的にあり得ない。したがって、半数以上の人間にとって、それは錯誤に他ならないということになる。もちろん、人間の能力は、自然界に暮らす動物とは違い、無限と言って差し支えないくらい多様な評価基準があるから、全ての評価軸で平均以下という人間が半数を超えるとは言えない。しかし、自分を平均よりやや上の人間だと思うことによって心の平安を得ているような人間が、様々な評価軸でもって厳正に自分の能力を推し測り、少なくともこの能力については平均以上と考えていいだろう、というような客観的な評価を下しているとは、到底考えられない。おそらく漠然とした感覚評価に過ぎないはずだ。

 だとすれば、そうやって得た心の平安は、ある種の幻想、まやかしだということになる。たしかに、幻想にすがらないとやってられないというのも、人生の一面の真理ではあるだろう。現実の人生は生まれた瞬間から不公平なものなのだから。しかし、それで果たして人は本当に幸せになれるものだろうか。私にはそうは思えない。理由は単純。幻想に逃げ込んだままの自分をそっとしておいてくれるほど、現実は甘くないものだからだ。そう、現実というのは決して人に優しいものではない。

 一生を幻想の中に逃げ込んで逃げ切れる人などそうそういるものではないだろう。実際には、現実から自分の本当の姿を突き付けられ、痛い思いをする人間が圧倒的多数を占めるだろう。そして、その痛みは、逃げ込んでいた期間の長かった人ほど耐え難いものになる。だから私は不思議なのだ。どうして人は、自分の真の姿と向き合い、少しでも改善しようと試みないのか、と。

 これまで私が観察したところによると、大半の人間は、少しでも痛みを伴うような努力を厭う。たとえいつか耐え難いほどの痛みが襲って来ることを予感していても、今この瞬間に耐え忍ぶべき僅かな痛みから逃れようとする。とりわけ精神的な痛みから。多くの人は精神的な痛みに対してあまりにも弱い。

 身体を動かすのを厭わない人の中には、そういう精神的な痛みを肉体的な痛みにすり替えようとする人も珍しくない(個人的には、これが一流のアスリートになり損ねる最大の原因だと考えているのだが)。彼らは自分の本当の姿を直視する精神的な痛みから逃れるために、自分に肉体的苦痛を与えるという、代償行為に走る。たしかに、へとへとになるまで頑張ったという、(私に言わせれば、偽りの)充実感は得られるだろうし、そういう行為ができることを自分の精神的な強さだと錯覚することもできるかもしれない(おそらく、これが日本のスポーツ界に長らく蔓延して来た誤った精神論の出所だと思う)。しかし、実際には、精神的に強くなるどころか、ただ肉体を消耗させ、アスリートとしての寿命を縮める結果になる。そして何よりも、そういう見当違いの頑張りはせっかくの成長の契機を逸することになる。

 本当の精神的な強さとは、勝敗や生死のかかったギリギリの局面において自分の力を信じ切れることだと私は思う。言うまでもなく、これは常日頃から自分の本当の姿と真摯に向き合い、地道な改善を続けて来た人間にしか手に入らない、本物の自信だ。そういう人は自分にできることを(当然できないことも)よく知っているから、ギリギリの局面でも普段通りのことができる。もとよりそのためには、不断の努力を要する。ただしそれは、ちょっとした心がけで誰にでもやれる小さな努力の積み重ねでしかない。

 まずは、現実が自分に求めてくるもの(それが他の人からのものであれ、仕事などの技術的な事柄であれ)のうち、自分はそれに応えたいと心から望んでいるが、現段階ではまだ難しいと感じていることを、常に意識し続けることだ。そのことを常に心に留めておき、暇があればそれについて何故自分にはできないのかを考えてみるだけでいい。答えが出なくても一向に構わない。そもそも、そんなに簡単に答えが見つかるものなら、とうの昔にできるようになっているはずなのだから。なかなか答えが見つからなくて当たり前。めげる必要はない。重要なのは、答えにたどり着くまでの過程だからだ。それこそが常日頃から本当の自分と向き合うということなのだ。

 そうやって、現実の要求に応えられない、不甲斐ない自分を直視することに慣れなくてはならない。何も自分を責めろと言うのではない。ここが肝心なところだ。神ではない以上、我々にはできないことがあって当たり前だし、できないことの方が多いに決まっている。自分を責めてできるようになるのならいくらでも責めればいいが、そんなことをすれば、どんどん自信を喪失するだけで、かえって精神的には弱くなるだろう。だいたい、自分に限らず人を責めるという行為は、できるはずのことができなかったときにやるべきこと(社会的に問われる責任も同じだ)であって、端っから自分に(相手に)できないと分かっていることを責めたって何の意味もない。

 この意味で、よく自分を責める人とというのは、自分を高く見積もり過ぎている可能性が高い。そしてそれは、本当の自分と向き合えていないという証拠でもある。自分にはやれたはずだと思い込んでいることが、その人の本当の実力とは完全に乖離してしまっているのだろう。自分を責める暇とエネルギーがあったら、さっさと今の自分にはできなかったという現実を受け入れて、今後同様のことが起きた時には対処できる自分でいられるようにその時間とエネルギーを傾注すべきだ。なぜ今の自分はそれができる人間ではないのかという理由を見つけ出さなくてはならない。そして、その理由は、感情論抜きで合理的・客観的に考えなくてはならない。そのためには、冷徹な自己観察眼が必要だ。他人を見るように自分を観察しなくてはならない。

 大半の人は全くそういう努力をしないでおいて、ただ失敗した自分を責める(ときに罰する)ことよって、責任を取った気になっているだけではないかと私は思っている。だから、同じ過ちを何度も繰り返すのだろう。しかし、その度に、いくら泣こうが、いくら喚こうが、たとえ自分の腕や足を切り落として自らを罰しようが、その後何の変化も改善も見られないのであれば、それは単なる自己欺瞞にすぎない。そういう人間は、本当の自分がいる地平に降り立つことは決してなく、唯我独尊、自分ひとりを高い所に置いて、そちらを本当の自分だと思い込もうとしているだけなのだ。

 現実によって自分の本当の姿を突き付けられたときこそ、実は成長のチャンスだ。成長のためには、本当の自分が今立っている地平に降りなければならない。そこから見える景色を直視しなければならない。そうして初めて自分に何が足りないのかが分かる。自分に足りないものが分かったら、なぜ自分がそれを手にしていないのかを理解することだ。必ず理由はある。その理由は人それぞれだろうが、総じて言えることは、自分を過大に評価する心の動きというのは、この宇宙、この世界の理(ことわり)に反している可能性が高いということだ。

 どんなに自分が凄いと思い込んだところで、我々は、この宇宙の、この世界の理の外で生きることはできない。地球の自転を止めることはできないし、1+1を3にすることもできない。だから、我々が明日死んだって、この宇宙は、この世界は、何も変わらない。それが現実なのだ。だから我々の方がこの宇宙にこの世界に適応して生きてかねばならず、そのためにこの宇宙この世界の理を学ぶ。自分自身のことを含め、この宇宙この世界で自分の意に沿わないようなことが起きても、間違っているのは現実を見誤った自分の方なのだ。そして、それを受け入れることができる人間だけが理に近づくこと、つまり、成長することができる。成長とは(何かの分野において)「理」を究めようと努力する、その過程に他ならない。それを日本人は伝統的に「道」と教えて来た。

 しかし、ここで多くの人間は致命的な間違いを犯しがちだ。それは、道と理つまり道理を方法と混同することだ。平たく言えば、問うべきは「なぜか(道理)」なのに、それを「どうすれば(方法)」とすり替えてしまう。本来、道理に適っていれば、方法は複数(大抵のことについては無限に)あるものだ。もとより間違った方法も無数にある。それなのに、方法を絶対視して、方法さえ正しければ正しい状態(理に適った状態)になると考えているのだから、本末転倒もいいところだ。方法が正しいかどうかはその方法が理に適っているものかどうかということでしか判断できないはずであり、その逆はない。道理を求めずして方法を問うことの愚かしさ、こんな自明のことに多くの人間は気づかない。

 実際、無能な人間ほど、少し困るとすぐに「どうすればいいんですか」と言う。本当なら「道理に照らして考えろ」と言えばそれでお終いなのだが、そういう人間は端から理を求める(究理)つもりなどないために発言をするのだから始末が悪い。当然、自分のそういう発言の裏にどんな自分が存在しているのかということにも気づかない。理を解する努力をせずに方法に頼ろうとする心の動きの裏には「方法ならば大した努力もせずに小手先だけですぐに変えられるもの」という浅はかな考えがあり、そして、その考えの奥には、「たとえ道理に適っていなくとも自分の生き方を変える気はない」という驕りがある。「自分は(道理に適っていなくとも)ちっとも悪くない」と。これは、「自分だけはこの宇宙この世界の理外の存在である」と宣言するに等しい。この驕慢で傲慢で傲岸な心が透けて見えるがゆえに、道理を究めようと日々努力を重ねている人間からすれば、こういう態度をとる人間に対して無性に腹が立つ。「そこをちょいと変えれば上手くいく」なんて単純な話ではないのだから。 

 我々人間が生命体である以上、この宇宙のこの世界の理に従って生きるほかない。我々人間は、愛する人一人幸せにすることすらままならない、愛する人みんなを守る力なんてもとより持ち合わせてはいない、実に無力で、塵にも等しい存在なのだ。しかも、この世界ではどんなに努力して理に近づいたところで、どんなに理知的な人間になったところで、報われるとは限らないし、報われないことの方が多いものだ。それがこの世界の現実だ。この厳しい現実を認め、受け入れ、自らの本当の姿を虚心坦懐に見つめるならば、この宇宙この世界の深遠な理を前にして「ふうん、そうなんだ。そういものかぁ」などと、これまた、あたかも自らがその理とは無関係の超越的存在であるかのような態度をとれるはずがない。「神ではあるまいし、塵芥ごときが何と傲岸不遜な」と言わなくてはなるまい。

 しかも、究理と無縁な人間ほど、理不尽なことに対して過剰なほど拒絶反応を示すから不思議だ。正直「よくもまあそんなことが言えたものだ」と思う。常日頃、自分を理を超越した存在であるかのような高みに置いておきながら、理に適っていない要求(=理不尽な要求)は断固拒否するというのだから矛盾も甚だしいのだが、もちろん、それに気づく由もない。理に適っているか理不尽かを判断する基準を実は自分が有していないということに思い至らない限りは。「どうすればいいか」が分かれば正しい道を歩めると思い込んでいる人間、つまり、道理に適った生き方をしていない人間には、文字通り「無理」なことなのだろう。

 また、逆説的だが手段に頼る人間ほど「結果が全て」と考えたがる傾向があるようだ。結果というのは、確かに自分が理に適う正しい道を歩いているかどうかを測る一つの尺度ではある。しかし、その結果は最終目標ではないはずだ。あくまでも、自分が正しい道を歩んでいるかどうかを知るチェックポイントである。それを「全て」と言ってのけるのは、これまたある種の傲慢というものだ。というのも、その発言の裏には「結果は全て手段によってコントロールできるもの」という錯誤があり、本来結果は誰にも予想できないものだという現実を無視しているからだ。だから、「結果が全て」という発想は、手段を目的化するという倒錯を生みやすい。

 たとえば、大学に進学すること自体を目的にしたり、テストで高得点を取ることを目的に勉強するのは、まさにそれだ。確かに受験の合否や試験のスコアは一つの結果である。しかし、それは目的ではないし、ましてや最終目標であるはずもない。強い格闘家を目指す者が「結果を全て」と考えるなら、負けは許されないことになる。これでは負けを糧に成長するという道は戦う前から絶たれてしまう。結果としては負けでも構わないという勝利以外の何かを得るための戦いはできないことになってしまう。この意味では、全ては目の前の結果だと考えるのは自らの道を狭める見方でしかない。結果は、最終目標が何であれ、自分が理に適った道を歩いているかどうかを確かめるチェックポイントとして活用すべき貴重なデータではあっても、目的ではない。そこを勘違いするから、近視眼的なものの見方しかできなくなるし、方向性のない場当たり的な方策を採ることになるのだろう。

 結果に直結するような方法があるという思い込みも傲慢の極みだ。実際、もし理に適った道をずっと外れることなく歩める人間がいるとすれば常に正しい手段をとることができるのかもしれないが、それはどう考えても人間業ではない。しかも、この宇宙はこの世界は偶然によって成立しているという理(不確定性原理)を忘れている。我々人間は、というよりこの宇宙に存在するもの全ては偶然から自由にはなれないのだから、結果を精査する際には、それも十分に加味しなくてはならない。どこまで行っても運はあるのだから。にもかかわらず、「結果が全て」と言い切るのは、やはり神の視点に立つ言辞と言わねばなるまい。

 真に重要なのは結果そのものではない。その結果にその人が如何なる意味を付与するかである。結果は、それに至った過程と手段を検証するデータとして有用であるに過ぎない。全ては、その結果にどのような意味づけをするかによって変わってくるからだ。そう、人間にとっては、「結果が全て」なのではない。「意味が全て」なのである。


 全てが不確定な宇宙というこの世界に暮らす我々人間の存在は、文字通りの塵芥に過ぎない。我々はそういう地平に立ち、自らの生を送っている。しかしそれは、ただ一点において他の生物とは決定的に異なる生でもある。それは、我々が「自らの生の意味を問う」存在だということだ。おそらくは言葉を話すという能力の獲得によって生じたであろう、このある意味非常に厄介な性質は、ときにある種の病のように我々を悩ませもする。しかし、同時にそれは我々の生を輝かせるものでもある。ある人が幸せであるか否かは、ただ一点、その人が自らの生に何らかの意味を見出せるか否かにかかっていると言っていい。

 少なくとも、もし我々の生がまったくの無意味であるとすれば、今や七十億に膨れ上がった肉塊が地球という狭い惑星の上で、ただ命を繋ぐためだけに食物を求めて蠢いているだけというのが現実ということになるのだろう。それではゾンビと何も変わりはないことになるが、実際のところ、それが現実なのかもしれない。その人がどんな世界に生きるのかは視点の問題だ。

 人間=ゾンビ世界観に納得し、それを受け入れるのであれば、その人は自らをゾンビと規定し、ゾンビとしての生(?)を選んだことになる。それが人類を幸せにするとは私にはとても思えないが、個人の選択としてはそれも確実に在ると言っていいだろう。もちろん、私としては人類全員がそういう価値観に染まった世界を想像したいとは思わないし、そういう世界観を持つ人を羨ましいとも思わないけれども。そういう人にとっては人生に意味を求めること自体がナンセンスだということになるだろう。刹那的な衝動と快楽が全てになるのかもしれない。現実にそういう人は少なからずいる。

 しかし、我々はここであることに気がつかなくてはならない。それは、もし人の生が無意味だとしたらという仮定に基づいて成り立っているこの人間=ゾンビ世界観も、実は、現実に対する一つの意味づけであるという事実である。人が何かを無意味だと規定するためには、暗に意味があることが存在するということを前提にしなくてはならないのである。つまり、無意味とは意味を前提とする概念なのだ。

 こう考えれば、我々が人である限り、意味から完全に解放されることはないということが納得できるはずだ。したがって、たとえ人生は無意味だと規定し、ただ自らの命を繋ぐことだけに腐心している人間であっても、それはあくまでも、その人が自らの生に対してそういう意味づけをした結果に過ぎないのである。我々が手にしている自由は、人である限り、どうあがいても、自らの生に見出す意味の選択権に留まるものなのであって、意味づけそのものを放棄する術は持ち合わせていないのである。これは人である限り受け入れるほかない事実、いや、人間の真理である。

 だとすれば、自らの生に対しては、人間=ゾンビ世界観に基づくネガティブなものでなく、ポジティブな意味を見出すことができる人間の方が幸せだと言えるだろう。ポジティブなことに好感を持つのは人間の本質に根差したものだろう。先の意味と無意味の話で言えば、人は無意味(ネガティブ)なことよりも意味のある(ポジティブ)ことを好む。このことは、人間を人間たらしめている言語そのものの構造にも見られる。およそ人間の言語という言語は、肯定形(存在する)をもとにして否定形(存在しない)を作るものであり、その逆の形式を持つ言語は存在しない。おそらくこれは、我々が生命体として、宇宙あるいは世界が、今目前に存在しているということを前提とし、それに適応するべく進化した結果なのだろう。実際、人間の心はネガティブ(否定的)な言葉や行動よりも、ポジティブ(肯定的)な言葉や行動に対して好感を持つようにできていることが証明されている。演説が盛んな欧米では、軽いスピーチであっても否定的な表現を用いないというのは、もはや常識である。ポジティブなものを求めるのは人間の本性なのだ(これを孟子風に解釈すれば性善説ということになるのかもしれない)

 人間の本性がポジティブなものを求めるからこそ、いつの時代でもお世辞や煽て(煽動)が効果を発揮するのだろう。ただし、お世辞を真に受けてはいけないというのも古くからの人生訓が教えるところであるし、昔から人を煽てるのは決して褒められた行動ではない。ましてや、自らに対してお世辞を言うなんてことになれば少々頭がおかしい奴と思われても仕方あるまい。そう、最初に述べた何の根拠もなく単なる感覚評価で自分を平均よりやや上の人間だと見なすメンタリティ(精神の有様)は、まさに自らにお世辞を言っているのと変わりはないのである。間違っても、それを自らの生にポジティブな意味を見出している状態だと思わないようにしなくてはならない。

 残念なことに、世の中には自らを煽て、根拠のない自信全開で生きる勘違い人間が、文字通り履いて捨てるほどいる。しかし、そういう仮面は、そいつが予想もしなかった状況や全く経験したことのない環境に置かれるといとも簡単に剥がれるものなのだが、そういう人間を強い人間と勘違いしてすり寄っていく弱い人間もまた履いて捨てるほどいる。両者を引きつけ合い、結びつけるのは、誤った自己認識に基づく事実誤認である。両者ともに、自分の本当の姿を知らないからこそ、片や自信過剰、片や自己不審(あるいは優柔不断)に陥る。一応断っておくが、後者が自分を平均より下だと考えている謙虚な人だと考えるのは間違いだ。本当に謙虚な人というのは自信過剰な(たいていは傲岸不遜な)人間を軽蔑することはあっても、憧れるなどということはあり得ないからだ。どちらも弱い人間だからこそ、過剰に強がったり、自虐的になったりしないと自分を保てないだけなのだ。その証拠に、一見強そうな人に尻尾を振って近づく人ほど、自分より下だとみなした相手に対しては実に冷酷なものだ。そういう人は、謙虚なのではなく、ただ卑屈なだけなのだ。

 いずれにせよ、自分の本当の姿を知らない人間というのは、有事(ここ一番)に実に弱い。常日頃から自分の本当の姿と向き合っていない人は、自分の弱さを知る由もないから、経験したことのない状況に置かれると途端にその弱さを露呈する。この宇宙で人間という存在が立つ地平に降り、そこに立って自分と世界を眺め、自分の弱さを直視した人間は、自らの弱さを知るがゆえに強くあることもできるようになる。徹頭徹尾強いだけの人間も弱いだけの人間もこの世にいるはずがないということを明確に理解するからだ。歴史上のどんな英雄にも弱さがあったということを実感できる。意味と無意味の関係と同じように、これも逆説的だが、自らの弱さを知った人間だけが強くなれる。英雄とまではいかなくとも、自分に必要な強さは必ず身につけることができるものだ。

 そして、自分の本当の姿と向き合うか否かという問題は、「どのくらい」という程度の問題ではない。二者択一の問題であると私は考えている。自分の本当の姿を見る気があるのかないのか、見るか見ないか、受け入れるか受け入れないか。これは神を信じるか否かという命題と同じ構造であって、もし受け入れていない部分があれば、向き合ったことにはならないし、結局またいつか現実から手痛いしっぺ返しを食う羽目になる。そのときに感じることは、こうに違いない。「やはり自分はまだ自分の本当の姿を知らなかったのだ」と。これは結局のところ自分を知らなかったということに他ならない。人はご都合主義に傾きやすいものだから、その時々の自分に都合の良いところだけを引き受けたいという誘惑にかられるものだが、そうは問屋が卸さない。人を愛するということを考えてみればよい。相手のここは好きだが、あそこは嫌いだという状態ではその人を愛しているとは言わない。相手の短所も長所も全て受け入れることなくして愛は成立しない。要は、自分に対しても同じことをすればよいだけのことなのだ。

 ただし、それが溺愛ではなく、健全な自愛であるためには、自分との(他人とも)付き合い方が道理に適っているかどうかが分かれ道になる。自愛(自分を大切にする)は、自分を甘やかすという意味ではない。もちろん、これは手段の問題ではない。道理に悖るような人間関係(たとえば不倫や援助交際等)は、いくら相手との付き合い方(方法)を改善したところで道理に適うものにはなりようがない。これは相手が自分であっても変わらない。それが正しいものであるかどうかは、道理に基づいて判断するほかないのだ。道と理、この二つを求める心(求道と究理)を保つこと、これが人間として正しくあるための根本であると思う。

 求道と究理の心を持つのみが、自らの脆弱さと無知・無能ぶりを自覚できる。そして、その自覚こそが謙虚と羞恥を持った心を育み、それが求道と究理をさらに推進する力となる。こうして生まれた好循環がその人の生を輝かせ、その人の人生を(そして周りの人間の人生も)ポジティブなものにしていく。これが意味ある人生というものではないのか。そして、そういう人生を送った人間が最期にそれを振り返ったときに初めて、それを幸せだったと形容するものなのではないだろうか。

 だいたい、本当に幸せなときというのは、その瞬間には幸せだとは自覚していないものだ。振り返ったときに初めてあのときは本当に幸せだったと気づくものだろう。悲しいことに、幸せでないときほど過去の幸せを強く感じるものでもある。だから、本当に幸せな人生というのは、求道と究理の精神を持って常に成長を続け、常に過去の自分よりも現在の自分の方が気に入っているという状態を保つ努力をしているうちに、気が付けば最期の瞬間を迎えていて、その時に初めてああ幸せな人生だったと振り返る、そういう人生のことだろう。残念ながら私ごときでは、そのレベルにはとても手が届かないが、少なくとも常に今の自分がこれまでで一番マシだと感じながら生きていたいと願いつつ足りない頭を絞っている。
道理と方法
 中国の故事に、こんな話がある。

 斉の国に南北に走る公道があったのだが、その道は雨が降るとすぐにぬかるんで5~600mほどが水浸しになるため、人々は道の西側の農地の中を通るようになった。田畑を踏み荒らされたその農地の夫婦は、通り道になってしまった土地についたてのような土塀を5、6歩ごとに合わせて数十個ほども建て、そこを通れないようにした。ところが、通行人はその土塀を迂回してさらに西側の農地を通るようになったため、結局は踏み荒らされる場所がさらに拡がっただけであった。夫婦は泣いて通行人に懇願するしかなかったが、人通りが多過ぎてどうにもならなかった。それを見た人が「土塀を建てた土地はすでに農地として使えないのだから、土塀を壊してしまって、そこを通らせた方が被害が少なくてすむではないか」と言ったが、筆者は「それよりも、その土塀を壊してその土を使って国道を埋め、雨が降ってもぬかるまないようにすればいい」と提案する。農家は筆者の言葉に従い、その後は農地を踏み荒らされることがなくなった、という。

 この故事は、問題は根本的に解決しなくてはならないということを教えるものですが、まさに今の日本人はこの教えについてよく考えてみるべきだと思います。先の故事では、どうして筆者以外の人はだれも根本的な解決を思いつかなかったのでしょうか。大半の人は、今も昔も、目の前の問題にどう対処するかという方法(対処法)しか頭にないからだと思います。何事においても重要なのは、「どうやって」ではなく、「なぜか」なのです。問題が起こる理由を考え、原因を解き明かさなければ、その問題を解決することはできません。たとえば、病気の原因が分からないのに根本的な治癒は望めません。正しい治療法を見つけるには、病気になった理由を考えで理由を知らなくてはならない。有効な治療法は、病気の原因が判明しないと見つかるはずがないのです。物事の理由を知らずに方法だけを論じたところで何の意味もないのです。

 ところが、勉強でも仕事でもちょっと行き詰まると、できない人ほど「なぜ自分ができないか」という理由をよく考えてみもせずに、すぐ「どうすればいいんですか」と言います。しかし、そもそも方法が正しいかどうかは、問題が起こる理由を考え、原因を明確にして、それを解決するためにはどうすればよいかを理に沿って考えるしか判断のしようがないものです。つまり、理由を考えない人間、原因がわかっていない人間には、理に適った(合理的な)方法をとれるはずがないのです。その人には一つの理もないわけですから。理由も分からずに手段ばかりに拘る人間というのは、本来なら目的を達成するためにあるはずの手段・方法を目的化してしまっている、まさに本末転倒の状態にあります。だから当然、道(way)に迷う。手段や方法(way)というのは、本来目的を達成するための道筋(way)に過ぎないものですから、理に適った方法は一つとは限らないものです。たとえば、山の登頂を目指すという目的を達成するためのルートはいくつもある。道中が楽しいルートがいいのか、険しくとも最短のルートを選ぶのか、遠回りでも安全なルートを選ぶのかはその人が山に登る理由と状況によるはずです。この理由を無視してどのルートが正しいかを問うたところで何の意味もありません。自分が勉強する(あるいは勉強が出来ない)理由も考えずに、できるようになるはずがないんです。

 どうして皆こんな単純なことに気づかないのか、私はずっと不思議だったのですが、私なりに考え抜いて見出した原因を、つい先日の授業で、学力が伸び悩んでいる塾生たちにぶつけてみることにしました。「もし自分ができない根本的な理由を問うと、自分自身が間違っていたということを認めなくてはならなくなるからなんじゃないか」と。そして、「手段・方法が間違っていただけだということにすれば、自分は何も悪くなかったということにしておけるからではないか」と。「簡単に言えば、自分が間違っていたことを認めたくない、自分は正しいと信じていたいからではないか」と。彼らははっとした様子で、その通りだと認めました。子供に限らず、きっと多くの人が同じ過ちを犯しているのではないかと思います。どうしてそんなことになってしまうのでしょう。

 そもそも、勉強(学問)というのは物事の道理を理解するためのものです。道と理というのは、いずれもこの宇宙の摂理を意味する言葉です(この場合の道はwayではない)。宇宙の摂理は、自分がこの世界に生まれてくる以前から存在していて、自分が死んだ後もずっと変わらないものであって、それが分かる=理解する(理を解する)のは、それに適応して生きてゆくほかない我々の側の問題、それを理解する責任は100%人間の側にあります。ひとりひとりの人間の目線で言えば、それを理解できるかどうかはその人個人の問題です。これは、理を教える側の人間(教師)であろうと、学ぶ側の人間(生徒)であろうと、同じです。人はこの摂理の下でしか生きられないからです。宇宙の摂理=物事の道理を理解し、この世界に上手く適応すること、これ以外に学ぶ理由はないと言ってもいいくらいです。ですから、この世の理(ことわり)を解さないのに優秀な人間などいるはずがありません。

 逆に、それを解する気がない人間、そういう理よりも自分の主観を優先する人間は一般に馬鹿とか頭が悪いと言われるのです。それもあくまでその人自身の問題であって、生まれつきの頭の良い悪いとは無関係です。たとえば、「地球が丸いなんて信じない。引力なんて自分は感じないから、地球が丸いならみんな地球から落ちてしまうはずだ」と言い張る人間がいれば、それはその人が間違っているのであって、その人が理解しようとしまいと、地球が球体で我々はその引力によって吸い寄せられているという理は微塵もゆるがない。勉強ができないとすれば、それは、宇宙の摂理=物事の道理を理解しようとはしないところ、あるいは、理解できるようにならない自分の方に問題があると認めないことに原因があるのです。これを認めない限り、その人は、決して勉強(学問)ができるようにならないと思います。

 にもかかわらず、多くの人(あえて子供とは言いません)が、この摂理=道理を無視するような考え方をしようとします。たとえば、勉強(学問)を出世のための手段・方法と考え、勉強の目的をテストで高得点を取ることだと誤認しているのがまさにそれです。本来、テストというのは、その人がどのくらい理を解しているのかということを確認するためのもので、高得点を取ること自体が目的ではありません。目的はあくまでも理を解することであり、理解が高ければ当然高得点が取れるものです。実際そのように作成されています。テストは理解の高さを測るための手段の一つに過ぎず、高得点は理解の高さを表す指標の一つに過ぎない。出世のため成績のために勉強するというのは、先に述べた手段を目的化するという、本末転倒の状態、道理に適っていない不合理な状態であるわけです。

 弊著にも書いたのですが、もし理解を無視して勉強をただの手段だと考えてよいとすれば、たとえば、トナカイに乗ったサンタが空を飛んでくるのを信じている状態のままで物理のテストで高得点が取れる人がいてよいことになります。その人自身は何も変えずに手段だけはどうとでも変えられることになるわけですから。しかし、実際にそんな人がいたら気持ち悪いです。実際、我々は勉強を出世のためのあるいは成績のための手段だと考えている人で優秀な人間というのを見たことがありません。にもかかわらず、今の世の中、自分を棚に上げて、小手先の方法を変えるだけで何でも対処できると思い込んでいる人はかなりの数にのぼるでしょう。

 なぜ多くの人がこんな過ちを犯すのかというと、知らず知らずのうちに、宇宙の理を超越した視点、つまり、神の視点から物事を見ようとしてしまうからだと思います。「どうすればいいんですか」という手段・方法だけを問題にする態度をとる人は、自分を理の外に置いているのではないかと思います。「どうすればいいんですか」という言葉の裏には「自分は間違っていない。間違っているのはやり方だ」という前提があって、上手くいかないことを自分自身に問題があるとは思ってはいない証拠です。「自分自身が理に適っていない状態だったからこそ、その自分がとった方法が誤っていたのだ」という視点が完全に欠落しています。つまり、「悪いのはやり方であって、自分は何も悪くない」ことになっている。この自分自身が無謬であるという前提は、神のみに許されることでしょう。人間ごときがこのように考えるのは、あまりにも傲岸不遜です。少なくとも、日本人の伝統的な美徳である謙虚さからは程遠い態度だと思います。

 そういう態度をとる人間はどう見ても道理に適う生き方ができるはずがありませんから、大半は現実から手痛いしっぺ返しを食うことになるでしょう。受験の失敗であったり、仕事上の失敗であったり、挫折であったり、離婚であったり、家庭崩壊であったり、事象・現象はそれこそ様々でしょうが、自分を理の外に置いて物事を見ようとしている限り、しっぺ返しは続くと思います。興味深いのは、自分を神の立ち位置において物事を眺めたがる人ほど、他人のそういう態度に対して不寛容だということです。だから、世の中というのは諍いに事欠かないのかもしれません。互いが自らを神の立ち位置において言いたいことばかり主張すれば、諍いが起きない方が不思議ですから。ただ、そうした諍いも仲裁するのは道理(公には法理)だことを忘れてはいけないと思います。

 自分を宇宙の理を超越した立ち位置に置いて物事を眺めたがるという性向は、個人的にはある種の幼児性の表れであると思っています。アニメのヒーローを見たら、自分もそれになれそうな気がするという類の、理による裏付けの全くない感覚的なものです。最近の子供たちの困ったところは、そういう性向をこちらが認めてやらないと、たちまち自信を喪失して、なげやりになったり、逃げ出したりするというところです。もちろんこれは、彼らの自信には合理的な根拠が何もないからです。そういう子供は幼児性から抜け出そうとせず、成長すること自体を拒みます。いじめが原因でない不適応(不登校や引きこもり)の多くはここに原因があるのではないかと私は思っています。

 こういう子供たちの困った性向を助長しているのが、大人の「褒めて伸ばす」という教育方針です。これは、子供たちの側からすると「自分は褒められて伸びるタイプ」という認識になります。しかし、こういう教育方針を掲げる大人や、褒められて伸びるタイプを自認する子供たちの中で、「褒める」ことと「煽てる」ことの違いを理解している人が一体どのくらいいるのでしょう。私には大半の人が両者の区別をしていない(おそらく考えたこともない)ように思えてなりません。言うまでもないことですが、「煽てる」というのは人として褒められた行為ではありません。ましてや、自分を「褒めてくれ=煽ててくれ」などと思っているとすれば、その人は自分を王様か何かと勘違いしているということになります。褒められて伸びるタイプを自認する人の多くが、本人が考えているほどの能力を持っていない場合が多いのは、おそらくこのためでしょう。実際、これまで私は「褒められて伸びるタイプ」を自認する人で、優秀な人(大人も子供も)には会ったことがありません。

 勘違いしないで頂きたいのは、何も私は「褒めない」と言っているのではありません。褒めるに値することをすれば喜んで褒めます。しかし、それに値しないことをわざわざ褒めてやろうとする(理に適っていない)のは、煽てることにほかなりません。人をすぐ煽てる人間は尊敬されないものです。それは相手に「媚びへつらう」ことになるからです。教師というのは生徒に尊敬される存在でなくてはいけませんから、本来それを一番やっちゃいけない職業です。生徒に媚びる教師など尊敬されるはずがありませんから。かと言って、もちろんいつもムスッとしていて機嫌が悪そうというのもいけない。穏やかで朗らかで、何より生徒が接していて心の余裕が感じられる存在でなくてはならないでしょう(とても難しいのですが)。もとより生徒が間違った(道理に合わない)ことをしたときは厳しくあらねばいけません。そのために、何よりもまず、道理に明るくなくてはならない。道理を教えるのが教師の職務なのですから。

 弊著にも書いたことですが、「怒(おこ)る」のと「叱る」のは全く違います。これは「褒める」と「煽てる」とが全く違うのと同じことです。「褒める」と「煽てる」の区別がつかない人は、やはり、「怒る」と「叱る」の区別がつかないだろうと思います。教師に限らず、大人は、子供を「叱る」べきであって「怒る」べきではないのです。そもそも怒りはネガティブな感情です。「怒る」という行為は相手に自分のネガティブな感情をぶつけることであって、相手の間違いを正すためのポジティブな行為である「叱る」とは本質的に異なるのです。この差異をきちんと分かっている人間でないと子供を「叱る」ことはできません。叱られた子供は反省しますが、怒られた子供は敵意や憎悪を抱くだけです。それを知らずに怒ってばかりいる大人の何と多いことか。「怒る」のは「煽てる」のと対極にあって、同じくらい道理からは遠い、人として道を誤った行為なのです。ですから、「煽てる」のも「怒る」のも、子供を健全な大人にはしません。煽てられて育った子供は道理をわきまえようという気になりません。怒られてばかりで育った子供は、こちらが叱っていても、怒られたと受け取って敵意や憎悪を向けて来るようになります。両者とも他人と健全な信頼関係を築く能力がないという点では同じです。「叱る」という行為は、子供の行為が道理に照らして間違っている場合になされるべきものですから、叱る側の教師や大人が道理から外れていては話になりません。

 今は、道理に照らして自らの行為を顧みる大人が果たして今この国にどのくらいいるのかがとても心配です。本来、人間というのは道理にはずれた状態で生きて行けるものではありませんから、大人が率先して道理に適う生き方をしなくてはなりません。アメリカのように道理から外れてしまった人間を収容施設(刑務所)が足りなくなるような社会になってもよいのなら気にしなくてよいことかもしれませんが。
「子どもに勉強させる前に大人が知っておくべき7つのこと」
たいへんお待たせいたしました。ようやく二冊目の本が発売になりました。

今回も自由に書かせて下さったギャラクシーブックスの担当Kさんには、心から御礼申し上げます。

一冊目は、阪神淡路大震災をきっかけに我々が新風館を立ち上げた経緯から始まって、
我々の考えている教育論を展開する内容だったのですが、

今回の二冊目は、勉強をめぐる普遍的な誤解とでも言いましょうか、
勉強という行為について多くの方が勘違いなさっているであろうことに焦点を絞って書きました。
読んでいただければ「本当に賢いとはどういうことか」が分かる本になっていると思います。

タイトル的には、子どもを持つ親御さん向けに見えると思いますが、
「一体何のために勉強するのか」という疑問を持っている学生の方や、
自分が勉強して来なかったことをちょっぴり後悔しているという大人の方にも
是非読んでみて頂きたい本です。

そういう方々でなくとも、
教育は「人間が人間であるために不可欠なもの」という視点に立って書いていますので、
読んで後悔なさることはないと思います。
校正担当の方からも、「教育の大切さがよくわかりました」というコメントを頂戴しましたし。

みなさま、ご購読よろしくお願い申し上げます。