新風館通信
迷走する教育       道しるべでいたい

プロフィール

M.Kaze

Author:M.Kaze
新風館のブログ(ハードタイプ)
北風のブログ



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

精神力 その9
 今回は、前回精神力その8で述べた「自分が間違えるはずがない」というメンタリティがどれほど恐ろしいかということについて述べたいと思います。

 人間は、心理学的に言うと、生まれたとき、主観的には全知全能の状態であるそうです。客観的には無知無能なのですが、それを自覚する能力がないからです。世界と自分とが未分化な状態、つまり、どこまでが自分の内側で、どこから先が自分の外側に存在しているのかが理解できないのです。しかし現実には、お腹が減っても自分の力では食べ物が得られないし、排泄をして不快なのに自分の力ではそれが解消されない。そういうフラストレーションを経験して行く過程で、自分が全知全能ではない、むしろ無知無能であること気づいていくわけです。

 ところが、全知全能感というのは甘美なものですから、自分の無知無能を認めたくないという欲求が生じます。そこで子供は、自分の親(特に母親)に自分の挫折した全知全能感を転嫁します。だから、幼い子供というのは親が何でも知っていて、何でもできるものだと思っているのです。だから親に従う(正確には親の言動ではなく行動を真似る)のです。

 ここで重要なのは、人間というのは、生まれた当初に持っていた(と錯覚していた)全知全能感への渇望から、この世の全てを自分の思うがままにしたいという衝動:自己拡大衝動と、自分の全知全能感が挫折した後に親に全てを託したように、自分では何もしたくない、全てを誰かに任せてしまいたいという衝動:自己放棄衝動の両方を持っているということです。

 この自己拡大衝動と自己放棄衝動という概念を用いると、たとえば、ヒトラーのような独裁者に人民が全てを委ねてしまうという事実を分かりやすく説明することができます。つまり、出口の見えない大不況という状態に追い込まれた人民がどうしてよいか分からず、自己放棄衝動に駆られて、ヒトラーという強烈な自己拡大衝動を持った人物に全てを託してしまった状態だったと言えばいいでしょう。

 この例でも分かるように自己拡大衝動と自己放棄衝動のいずれに偏っても問題があり、両者のバランスがとても重要だと思うのですが、残念ながら今はどちらかに偏っている人が多いと思うのです。たとえば、自分が困るとすぐに「どうすればいいか」と誰かに聞く人がいますが、そういう人は自己放棄衝動が強過ぎると言えると思いますし、逆に「自分が間違えるはずがない」などと考えている人は自己拡大衝動に酷く偏っていると言えると思います。いずれの場合も問題ですが、今回は、前回の「自分が間違えるはずがない」と考えることがテーマですので、主に自己拡大衝動によって生じる問題を取り上げます。
 
 今の子供達の多くは素直に「謝る」ということができません。これは、自分が「間違えるはずがない」と考えるメンタリティであること、そして、その根底には自己拡大衝動が潜んでいると私は考えています。多くの子供達が自分が悪いときは潔く自分の非を認めるべきだということ自体を知りません。そしてそれを叱らない、叱れない大人もまた多い。

 このことの恐ろしさに多くの人は気づいていないのでしょうが、まず、自分の非を認めないメンタリティというのは、反省するということができません。だから、進歩・向上も拒むことになります。それだけではありません。その根底に自己拡大衝動がある場合、それを抑えられないと「自分は何をしても許される」というとんでもない錯覚を生むことにもなります。このところ、とんでもない事件を起こしておきながら恬として恥じないという犯罪者がよく世間の耳目を騒がせていますが、自己拡大衝動に突き動かされて自分が全知全能だと錯覚している人だと考えれば、別段不思議ではありません。

 もちろん、そこまで極端に走るのは少数の人間の話だと思います。しかし、「自分は何をしても許される」とまでは思わなくても、そういうメンタリティの持ち主の多くは、進歩・向上のための努力とそのために不可欠な精神面での成長を拒んだまま、「自分は誰にでも受け入れられる」と錯覚する可能性が常にあります。

 これはある公立校の教師の話として人づてに聞いた話ですが、高校入試で自分が合格できなかったという事実を現実として受け入れられない子供が増えているそうです。これは、努力が報われなかったことでショックを受けるということではなく、「じゃあ、僕(私)、あの学校に行ったらあかんの?なんで?」という反応をするそうです。つまり、受験によって自分が受け入れられないということが現実に起こりうる、ということがただただ信じられないわけです。その先生は「今の子は現実感というものがない」と表現しておられたようですが、私にはもっと深刻な問題に思えます。

 努力とそれに伴う苦痛を拒んだまま、自分が誰にでも受け入れられて当然だと考えている人が、もし誰かに拒絶されたらどうするのか。考えただけで恐ろしくなります。すぐにキレたり逆ギレするというのも、こうしたメンタリティが表出した行為の一つだと思います。しかし、そういう単発的な感情の暴発ならまだいい方なのかもしれません。そういうメンタリティでいながら、人に自分の感情をうまく伝えられない人だと、引きこもりになってしまったり、鬱屈した感情がいつか大爆発を起こしても不思議ではないからです。

 いずれにせよ、柔軟な子供のうちなら、何かに頭をぶつけることで自分の非に気づき、自己変革をすることができるかもしれません。しかし、成人してからそれをするのは非常に難しいと思います。自分が間違っているのではなく、相手(世の中)が間違っていると考える方がはるかに楽だからです。昨今では耳にすることがすっかりなくなってしまった「若いときの苦労は買ってでもしろ」という言葉は、本来そういう状態に陥ることを避けるため、精神面での成長を促すためにあったのではないかと思います。

 こう考えると、子供に何でもしてやることが愛情だと勘違いしている大人(親)というのは、大変罪が重いことになります。子供の自己拡大衝動あるいは自己放棄衝動のいずれかを著しく助長することになるからです。そういう大人に接している子供は、何でも自分の思い通りになると考えるか、何でも誰かがやってくれると考えるか、いずれかになるでしょう。いずれにしても、そういう子供はストレスやプレッシャーに極端に弱い人格になることは容易に想像できると思います。

 ストレスは良くないものだという認識が一般的だと思いますが、体を鍛えるときに筋肉にかかる負荷も英語ではストレスと言います。ストレスフリーでは体力は向上しません。もちろん頭脳も同じです。そして、能力の向上を支える精神面を鍛えるのにプレッシャーは不可欠なものです。プレッシャーのかかった場面で発揮できないのは本当の実力ではありません。ストレスもプレッシャーもかけ過ぎるのは問題ですが、かけなければ人間の能力は向上しないものなのです。ですから、学習能力の高い人というのは、適切なストレス・プレッシャーを自分にかけ続けられる人のことなのです。当然、「自分が間違えるはずがない」というメンタリティの人で学習能力が高い人はいるはずがありません。

 多くの大人に是非とも気づいて頂きたいのは、こうした精神面の成長を無視して学力・学習能力の向上をめざすというのがいかに矛盾しているかということです。「悪いことをしたら素直に謝りなさい」というのも立派な教育だし、それがきちんとできるということは学習能力を高めるのにも不可欠なことなのです。多くの大人たちは、常識に照らして正しいと思うことならもっと自信を持って子供を叱ってもいいのではないでしょうか。
スポンサーサイト




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。