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真教育論 その1
 今回からは、私の考える教育のあるべき姿について述べてゆこうと考えています。

 そもそも人間はなぜ教育を行う(行わなければならない)のでしょうか。

 この永遠の命題について考えるためには、なぜ人間だけが教育を行うのかということについて
考えなければなりません。と言うのも、人間以外の動物は生まれながらにして自然環境に適応する
ことができるからです。逆に言えば、人間以外の動物は生まれつき定められた生き方、つまり、
本能に基づく生き方しかできないということでもあります。一見、動物が人間と同じような教育を
行っているように見えても、それは自然環境という決められた枠の中でそれに適応するために必要
なことを教わるだけで、自然環境そのものに働きかけるということはできません。その意味で、
彼らは抗うことのできない宿命の下に生きているわけです。

 しかし、人間は違います。自らの快適な生存条件を整えるため、自然環境に働きかけることができ、
嵩じてそれを破壊することすらある。しかし、種としてはそれほど力を持ちながら、単体としては
非常に脆弱で、生まれ落ちたままの状態で放置されると、自然環境に適応することさえできない生物
です。動物としては障害を抱えて生まれてくるようなものです。ここに教育の必要性(必然性)が生じる
わけです。人間は、本能という宿命を逃れた代わりに、教育という宿命を背負うことになったと言える
でしょう。

 教育は大きく分けて知育、体育、徳育の三つの要素から成りますが、近代教育で重視されている
のは知育です。あまりに知育ばかり偏重するのは問題がありますが、本来、知は人間の人間たる
所以のものです。人間は知らなければ自然に適応することができません。知らなければ種を保存
するための繁殖すらできない生物です。何よりもまず知ること、これが人間の始まりだと言っても
いいでしょう。

 人間は知らなければ自然に適応できないと述べましたが、多くの人は自分が知ることによって
自然に適応しているという認識はないでしょう。なぜなら、私達は人間社会が形成した文化とそれが
築き上げた文明によって、むき出しの自然からは守られて生活しているからです。ナイフ一本持って
三日も山中にこもれば、文明というものの有り難味をしみじみと実感するはずです。我々の日常生活
が如何に社会によって自然から守られているかを痛感することでしょう。

 したがって、教育はまず第一に自分の生まれた社会とその文化に適応することを目的として
行われることになります。

 多くの人が拒絶反応を覚えるかもしれませんが、そこで行われる教育は、文化に支配されている
ということを認めさせ、それに対する服従を強いるものです。躾とはまさにそれでで、少し考えて
みれば分かることですが、躾に伴う行儀や作法というものには、そうしなければならないという
合理的な理由があるわけではありません。むしろ不合理でわずらわしいのが普通です。たとえば、
箸を使って食事をするというのは大変なことです。手づかみで食べる方がずっと合理的でしょう。
しかし、文化はそれを許しません。いくら子供が嫌がってもそれを強制しない親はいないでしょう。
ここに教育の持つ、支配と服従という側面があるのです。

 そして、残念ながらそれが教育の根本なのです。教育は決して綺麗事だけではすまされない
ものです。それでも、もし子供にこうした文化の支配を受け入れること、文化に服従することを
強制せず、放置したとしたら、その子供は将来決して幸せな生活を送れないであろうことは容易
に想像できます。だからこそ、親は必死になって子供に躾をするわけですし、このことに異議を
唱える人はいないでしょう。

 しかし、これがこと学校教育の話になると途端に、子供の自主性を尊重するとか、子供の人権を
守るためだとか、はたまた個性を伸ばすとかいう美辞麗句のオンパレードです。それらの前に、教
育の根本は忘れ去られてしまった感があります。その結果、学校教育が崩壊寸前にあるのは周知の
事実でしょう。

 こんなことを言うと、学校教育と家庭教育(躾)は話が違うと言う方がおられるかもしれません。
もちろん求められる教育の内容は異なりますが、教育の本質に違いがあるわけではありません。
学校教育は近代産業資本主義社会に上手く適応できる人間を育てるためにあります。そのために、
不可欠な知識を与えることももちろん学校教育の重要な役割ですが、それと同じくらい重要なのが、
この社会に主体的に参画できる近代的な自我を持った個人を育てることです。

 そのための教育は、ある価値観に沿った行き方を強いるという意味で、家庭での躾すなわち文化
の支配とそれへの服従を求めることと何ら違いはありません。教育を受ける子供の側からすれば、
強制であることに違いはないのです。それでも人間は、子供が親を選べないのと同様に、自分が
適応するべき社会を選べないのです。

 この事実から目を背けて、教育を語ること、あるいは、教育の理想を掲げることは、私には詐欺
のように思えます。綺麗事ばかり掲げた理想論が破綻するのも当然です。「ゆとり教育」が破綻し
ましたが、まだまだ教育を綺麗事で捉える風潮は根強いように思えてなりません。
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