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教育論 その3
 「人は教育されなければならない唯一の被造物である」カント

 ヒトは生まれながらにして人間であるわけではありません。この言い方が過激であると
思われる方に対しては、ヒトは生まれながらにして文化的・人間的であるわけではないと
言い換えてもいいでしょう。

 ヒトは、家庭での養育や躾といった、その国ないし地域の文化教育を受け、その文化環境
の下で育つことによって人間に近づき、さらに、学校教育を受けることで、言葉が日常生活
のコミュニケーションツールという次元を越え、世界や観念を表象するということを理解する
レベルに達することによって、頭脳のみならず自らの身体性を含めた自己像全体を再構成しな
ければならなくなり、それを経て初めてヒトは人間になるのです。

 前段の後半をもう少し詳しく説明すると、触覚や体感的なものだけでは外部の世界が知覚
できないということ(たとえば愛情・努力・平和といった、抽象的だが人間として非常に重要な
もの)を理解することによって初めて、自分とは一体何なのかという意識(自我)が生まれ、
そして、それは不可避的に、それまで身体的な感覚だけで自覚していた自分という存在を構成
し直すことになり、そうして初めて、自己を社会的に「自分はこれこれこういう人間です」と
表象することができるようになるわけです。これは思春期が第二の誕生と呼ばれる所以でも
あります。

 こうした視点に前回と前々回(教育論1・2)内容を含めて、教育のプロセスを俯瞰すると、

 ① 家庭教育+学校教育によって、その国ないし地域の持つ文化という枠組みに子供をはめ
  込んで非個性化する。

 ② 自己の再構成=主体の確立=学習者の誕生

 ③ 自発的な学習によって自己充足・自己実現を果たし、個性化する。

 という流れになります。

 ①の段階では、自分の欲求を切り捨てなければなりません。たとえば、箸を使わずに手づかみで
ものを食べたいという欲求は、日本文化では許されない行為であり、諦めざるを得ません。それは
同時に、フォークとナイフの方が上手く使えるようになるかもしれないという自己の可能性を断念
することでもあります。
 この意味で、①の段階は、自己限定的・自己否定的なものにならざるを得ません。

 ②の段階については前回(教育論2)で詳しく述べていますので割愛します。

 ③の段階は、①とは逆に、教育そのものを自分自身の好きなように組み立てられるという
意味で、自己肯定的で自己拡大的なものです。ただし、忘れてならないのは、この段階に
到達するためには、①②の段階をクリアしていることが必要不可欠であるということです。
というのも、自己充足や自己実現というのはあくまでも「近代社会の規範を逸脱しない」
という条件がつくからであり、そもそも自己を再構成・確立していない人間には実現すべき
自己(自我)が備わっていないからです。


 ①②の段階における教育の目標は、近代社会の成員として必要不可欠な知識・行動様式
・倫理観を身につけることにあり、我々が生まれて来る時代を選べない以上、これは降り
られないゲームのようなものです。そこで求められている人間像は、好むと好まざるとに
関わらず、自律的・合理的・理性的な人間なのです。

 ③の段階における教育の目標は、自らの人格の完成です。そこには外部からの強制は
ありません。文字通り自由に個々人が一生を通じて実現を図っていくべきものでしょう。

 こう考えると、教育というのは、究極的には自由を目指すものではあるけれども、
そのために不自由=強制が欠かせないものだということになります。
勉強は本能ではありませんから。

 勉強する意義もここにあります。勉強することは自己の外部を受け入れることであり、
その外部の秩序に合わせて自己を再構築するためのものなのです。自己を造り替える際に
用いられるのは言葉です。言葉を身に着け、人類がその歴史をかけて創り上げて来た世界、
言葉で構成された知の世界に入っていくことなのです。

 ここで忘れてはならないのが、勉強はその意味や価値が分かってからするものではない
ということです。勉強して知を身に着けてからでないと、その必要性や価値は分からないからです。