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真教育論 その4
前回の真教育論3では、「教育は究極的には自由を目指しながらも、そのためにこそ
強制という不自由を経験するプロセスが欠かせない」ということ、また、「勉強は、
言葉によって自己の外部を受け入れることであり、言葉によって外部の秩序に合わせて
自己を再構築するためのものである」と述べました。

 ここで忘れてはならないのが、勉強はその意味や価値が分かってからするものではない
ということです。勉強して知を身に着けてからでないと、その必要性や本当の価値は
分からないからです。よく、と言うか、最近ではほとんどの子供が、ある教科を「嫌いだ」
という理由だけで拒否しようとします。
しかし、上述のことからそれが許されないのは明らかです。

 そういう姿勢は、「私は自分の外部の秩序を受け入れるつもりがありません」と
宣言しているに等しいのです。現在なら「自分は近代産業社会に適応するつもりがありません」
と言っていることになります。しかし、そういう子供に限って、携帯電話やパソコン、
テレビやインターネットと言った、近代産業社会ならではの恩恵だけは最大限に享受している
ものです。

 これほどの恩恵を享受していながら、それを与えてくれている社会に適応しようとせず、
自己保存だけをはかろうというのは、どう考えても虫が良過ぎます。究極の我儘、自分勝手、
自己中と言えるのではないでしょうか。にも関わらず、子供がそういった姿勢でいることを、
平気で許す親が増えているのはどうしたことでしょう。

 聖書に「ムチを惜しむ親は子供を憎む者」という句があります。
社会に適応できるように子供を叱るのが親の務めだと思います。
それをしないでおいて、子供が成人してから社会に適応できないことに気づいても
取り返しがつきません。きっと社会に適応する術を知らないで成人してしまった子供は、
直接的・間接的にその家庭や社会に対し破壊的な行動を取ることになるでしょう。

 そんな大げさなと思われるかもしれませんが、現在、選ばなければ仕事はいくらでもある
にも関わらず、職に就けない若者が溢れているという事実が何よりも雄弁にそれを物語っている
ように思えます。世界に類を見ない速度で高齢化が進み、不労人口が急激に増加しているこの国で、
貴重な労働人口であるはずの若者が漂流している事実が、この国の暗い未来を暗示していないことを
祈るばかりです。

 少し話が逸れてしまいましたが、「嫌いだからやりたくない」という姿勢は、
自己を中心に据え、それを基準に外部の秩序を測っているという意味で、
外部の秩序を学ぶために受ける教育を根底から否定し、拒否することに繋がる
ということは確かです。少なくとも、自己を基準にして外部を測るという姿勢は、
「自分が正しい」という前提で物事を考える癖がつきやすく、学習を著しく阻害します。

 実際、「好き嫌い」に固執する子供の多くが、間違いを指摘された時、
半ば怒り気味に「どこが間違ってるん」という反応をする傾向があります。
そういう子供は、勉強は自己の外部の秩序を学ぶものである以上、正解か否かは
自分の外にある問題(客観的な問題)であって自分の感情は無関係だということが
なかなか理解できないのです。酷い場合には、最後まで
自分の間違いを認めないこともあります(ある子にとっては地球は未だに平たいままです)。

 重要なのは、「自分が正しい」ということを前提とした学びは成立しないということです。
これは子供でも大人でも違いはありません。極端な話、教師というのは生徒に対して近代産業
社会の体現者というか権化として相対する必要があり、生徒はその権威を受け入れなければ、
学習自体が成立し得ないのです。この意味では、教師は畏怖されるくらいでないといけないのです。