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STAP細胞を巡る問題 その2
STAP細胞 ~小保方さんと理研~

2.理研の対応について ~トカゲの尻尾切りなのか~

理研は、4月1日の会見で小保方さんの論文の過誤を改竄・捏造と認定しました。
前回の記事でも書いたように、
小保方さんが科学者として当然守るべきことを守れていなかったことは確かでしょうが、
もしSTAP細胞の存在が証明されれば、彼女に悪意があったとは言えなくなりますし、
たとえSTAP細胞が存在しないことが証明されたとしても、
小保方さん自身が実験時に「自分はSTAP細胞を作った」と信じていたのであれば、
悪意があったとは言えないことになります。
したがって、「悪意をもって」実験データを変えることを改竄・捏造と定義するのであれば、
小保方さんが改竄・捏造をしたと証明するのは極めて難しいことだと私には思えます。

しかし、たとえ小保方さんに悪意がなかったとしても、客観性に対する配慮を欠いた、
科学者にあるまじき重大な過誤であったことをは確かですから、
理研としては、それだけで改竄・捏造と認定するに十分と判断したのかもしれません。

この点については、理研の理事長である野良氏が、たしか最初の会見で、
小保方さんの論文の書き方を「(自分たちとは研究者としての)カルチャーが違う」と
表現しておられましたが、そのくらいこの論文における過誤は、
科学の世界の常識では考えられないものであり、衝撃が大きかったのであろうと推察します。
「(たとえ悪意はなくても)まさかそんなことをする研究者がいようとは」
というのが、理研と研究に携わった関係者の方々の本音ではないでしょうか。
そして、あまりにも重大な過誤であったからこそ、逆に誰も気がつかなかったのではないかと思うのです。

論文とは論証ですから、より単純な数学の証明問題にたとえると分かりやすいかもしれません。
本件の場合、おそらく問題についての証明過程(論証)に誤りはなかったのでしょう。
それで、正しいものと信じて発表した。
ところが、その後、設問そのもの(証明の対象となる現象そのもの)が
現実には存在しなかったのかもしれないという状態になってしまった。

ある刺激を与えれば細胞がリセットされるという現象が起きることを、
実質的に小保方さんしか確認しておらず、他の共同研究者たちは、
その現象が起きたことを前提に確認実験を行っていたとしたら、
肝心のSTAP細胞の存在自体は、誰も疑わないままになるという可能性は十分あると思います。
そして、証明の過程には誤りがないため、
STAP細胞の存在自体に疑義が生じる事態になろうとは思いもよらないまま発表に至った。
これが、この多くの人が関わっていながら論文の致命的な過誤に気づけなかった真相ではないか
と私は推察しています。

もちろん、この推察が当たっていたとしても、
共著者・共同研究者、そして理研に、何の責任も無いとは言えません。
理研は、科学者としての資質に疑念を抱かざるを得ないような人をユニットリーダーにした
という点について、当然責めを負うべきでしょうし、
共著者の笹井氏は、小保方さんと同等の責任を問われて然るべきでしょう。
しかし現状では、小保方さん一人に責任を負わせることによって、
性急に事態の収拾を図ろうとしているようにしか見えません。
これでは、理研が「トカゲの尻尾切り」をしていると批判されるのも仕方がないと思います。

しかも、小保方さんは現在も理研の人間なのですから、
世間に釈明するための会見の場を提供するのは理研の当然の義務ではないかと思います。
しかし、聞くところよると、小保方さんの釈明会見は彼女の自費で行われたそうです。
小保方さんが研究室に行けず(これは過熱する報道陣に追い回されることを考えれば仕方がないことです)、入院していたという事情があるとは言え、理研が何の手助けもせず、
小保方さん個人が釈明会見を開かなくてはならないという状況を見る限り、
理研は責任を彼女一人に押し付けようとしていると見られても仕方がないでしょう。

残念ながら、理研に限らず、この国の組織ないし集団においては、
全体の利益が大きく損なわれる危険性が生じたとき、
「トカゲの尻尾切り」を行うこと、もっと直接的な表現を使えば、
誰かが「詰め腹を切らされる」ということは、伝統的に行われて来ました。
この「詰め腹を切る」という表現が存在していること自体が、それを雄弁に物語っています。

理研という組織の立場からすれば、
小保方さんは「詰め腹を切らせる」に足る重大な過誤を犯したことになるのでしょう。
私も、前回の記事で述べたように、彼女の科学者としての資質には疑問を感じていますが、
彼女一人に責任を負わせようとする(少なくともそう見える)理研の対応には、
不信感を覚えずにはいられません。
このままでは、もし今後の追実験によってSTAP細胞の存在が証明された場合、
理研という組織が、論文の不備を理由に、若き一研究者から、
世紀の大発見と研究者としての未来を奪うことになります。
しかし、これまでの理研の対応を見る限り、たとえそうなったとしても、
組織の利益を優先する腹積もりであるとしか思えません。
でなければ、これほど性急に小保方さんの処分を発表する必要はなかったのではないかと思いますし、
第三者機関ではなく、理研自らの主導で実証実験を行うという選択もしなかったでしょう。

もし理研が健全な組織であるならば、
自らがユニットリーダーに指名した人間なのですから、
たとえ研究者として「未熟」であったとしても、小保方さんを沸騰する世論から守り、
小保方さん同席のうえで理研全体の問題として論文の不備について釈明会見を行っていたでしょう。
それから、小保方さん立会いのもと、理研として確認のための追実験を行えばよかったはずです。
そして、追実験の成否が判明した後に、組織の自浄のためにも、論文の過誤について
小保方さんを含めた責任者の処分を行う。そういう運びになっていたでしょう。

私がもっとも驚いたのは、「詰め腹を切らせる」という、
この国の集団・組織の多くが抱えている通弊が、
それからはもっとも縁遠いはずの科学者の組織にまで広がっているということでした。
(聞くところによると、理研がこのような対応をするのはこれが初めてではないようですが)
私が懸念するのは、理研に所属する研究者の方々が「明日は我が身」という恐怖にかられ、
画期的な研究を行うことに尻込みするようになってしまわないかということです。

組織が、成員の斬新な発想とそれを実行に移した際には間違いなく生じるであろう過誤に対して
あまりに不寛容だと、組織に属する人間はみな萎縮してしまい、
やがてみな「事なかれ主義」に堕するのは当然の帰結です。
そういう組織からは、もう新しいものは何も生まれて来ません。

私の勝手な想像ですが、この国の大企業の多くも同じ通弊を抱えているように思いますし、
日本企業の製品がつまらないものになってしまった一因もここにあるように思えてなりません。
少なくとも、科学の最先端を行くべき日本の研究組織がこのような状態では、
残念ながらこの国の未来が明るいとは言えないと思います。
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STAP細胞を巡る問題 その1
STAP細胞 ~小保方さんと理研~

1.小保方さんについて ~「未熟」の意味するところ~

これは、4月9日に小保方さんの会見が開かれる前から考えていたことなのですが、
改竄・捏造であるとすれば、一体何のためにそんなことをしたのかが理解できませんし、
単なるミスなのであれば、彼女は論文の核となる重要なデータもまともに扱えないことになり、
彼女の科学者としての資質に疑念を抱かざるを得ません。
いずれにせよ、STAP細胞が存在するのか否か、それが明らかにならない限り、
本当の判断は下せないと思います。
しかし、あえてこのタイミングでこの問題について考察を述べておこうと思ったのは、
私にはこの問題が、今のこの国が抱える教育の問題とそれに対する多くの人の不明を
凝縮したものだと思えるからです。

この論文の不備が明らかになった当初は、佐村河内氏の事件と同様に、
小保方さんが自己顕示欲に駆られて、改竄・捏造に至ったのだろうかとも思いました。
しかし、少し考えてみれば、いみじくも科学者として生きてきた方が、
単に自己顕示欲を満たすために意図的にデータを捏造するとは考え難い。
そんなものは論文を発表すれば、すぐに露見するであろうことは容易に予想できるはずですから。
博士号を取得するほどの頭を持った人が、いくらなんでもそんなことを予想できないはずがない。
とすると、やはり小保方さん自身はSTAP細胞の存在を確信していて、
その現象を説明するのに都合の良いように実際の実験とは異なるデータを使用したことになります。

実際の会見でも、小保方さん自身がSTAP細胞の存在については確信を持っているという
強い印象を受けました。
しかし、それを証明するに当たって彼女が犯したデータの誤用は、それがたとえ彼女の主張通り
「悪意のない改変・間違いだから改竄・捏造にあたらない」としても、
「私は科学者でいる資格がない」と言っているに等しい。
なぜなら、科学は客観的な証明が全てであり、自説を裏付けるための客観的な証拠となる
データや画像を恣意的に変えてしまうという行為は、たとえ悪意がなくとも、
客観性が保持できなくなることに変わりはないからです。

つまり、小保方さんは、自分の確信を証明するためには客観性の保持が不可欠であるという、
科学者ならば当たり前の認識を欠いていた、あるいは、
少なくともその認識が余りにも甘かったということになるのです。
彼女はその点を「未熟」と認め、謝罪しているのだと私は受け取りました。

個人的には、小保方さんの未来のためにも、難病を抱える多くの患者さんたちのためにも
STAP細胞の存在が証明されることを祈らずにはいられませんが、
以上のように考えると、現段階では科学者としての小保方さんを信頼することは非常に難しい。
したがって、STAP細胞の存在も信じるわけにはいかないという結論にならざるを得ません。
信じたいけど信じられない。
このジレンマが多くの人の耳目をこの問題に集めているのではないかと思います。

ここからは、「上述の見方が正しければ」という仮定の上で、あえて
もう一歩このジレンマの奥まで踏み込んでみたいと思います。

まず、ここまでの私の見方を要約すると、この問題は
「客観性に対する配慮を欠いた科学者というものが果たして存在し得るものなのか」
ということになると私は考えています。
小保方さんの主張を信じるのであれば、この問いに対する答えはイエスになり、
ノーと言うのであれば、小保方さんを有罪(意図的な改竄・捏造)とすることになります。

常識的に考えれば、「客観性に対する配慮を欠いた科学者」なんているはずがないように思えます。
ですから、小保方さんを信じない人たちの多くが、何とかして彼女の悪意・故意を認定しようとする
のも無理からぬことかもしれません。
そうでないと、ノーという見方からはこの問題にケリがつけられないからです。
現時点で理研はこの見方をとっているように見えます。

しかし、もしそいういう科学者が存在するのだということを受け入れれば、
彼女の主張を信じることができます。勿論、科学者としては失格だと思いますが、
少なくとも悪意はなかったという主張を受け入れることはできます。
私は、現時点ではこの見方をとっていますが、
小保方さん自身は自分が科学者失格だと考えてはいないようです。

彼女の発言通りに受け取れば、
彼女の研究態度は「自己流で」、科学者として「未熟だった」ため今回のような間違いを犯したが、
「反省している」から今後も研究を続けさせてもらいたいということなのでしょう。
しかし、「悪意がなかったから捏造とは言えない」ということは、裏を返せば、
「善意であれば客観性を無視しても許される」ということになります。
これは非常に危険な発想だと言わなくてはなりません。

これは科学(者)の本質にかかわる重大な問題であり、
心情的にどれだけ彼女に同情を覚えるかということとは関係なく、
彼女の科学者としての根本的な資質に疑念を抱かずにいられません。
そのような人が、なぜ博士号をとることができ、なぜ税金で運営される組織に採用され、
なぜユニットリーダーとして世界的な論文を手掛ける立場にいたのかということは、
短絡的に三者(博士号を授与した早稲田大学・採用した理研・小保方さん本人)のいずれかに
全部の責任を押し付けて断罪するのではなくて、
社会全体で議論を尽くすべき重大な問題であり、またその際には、
決して自分を傍観者の立場に置いて考えるべき問題でもないと私は思います。

というのも、小保方さんのSTAP細胞に対する確信は、
科学に当然求められる客観性が欠如している以上、もはや学説とは言えず、
ある種の信仰のようなものと考えなくてはなりません。
そして、その信仰を支えているのが「悪意がなければ何をしても許される」という
昨今この国に蔓延している無責任な発想だと思われるからです。

言うまでもなく、自分のした行為について、その人がいくら主観的には
「悪気はなかった」とか「自分はそんなつもりじゃなかった」と信じていても、
その人の行為によって生じた問題に対する責任が無条件に免除されるわけではありません。
にも拘らず、自分の行為の責任を問われたとき、「悪気はなかったんだから責めないでくれ」と、
あたかも免罪符のごとく、この発想を押し付けて来る人がなんと多いことか。

逆ギレというのがその最たるものですが、この発想の本当の恐ろしさは、
それでもし全ての責任が免除され、全ての罪が許されるのであれば、
誰も責任を追及されないし、誰も罪に問われなくなってしまうというところにあります。
究極的には、悪意がなければ、それこそ何をしても構わないということになってしまうのです。

たとえば、主観的には、本当に相手のことが好きで、相手も自分のことを好きだと信じている
全く悪意のないストーカーを責めることはできないということになってしまいます。
さらには、それでもし相手に危害を加えても、悪気のない純粋な愛情表現だったと言えば、
その人は罪に問われないことになってしまうのです。

もちろん現実には、ストーカーは罪に問われますから、普通の人はしないのですが、
「悪意がなければ許される」という発想は、
容易に「善意なら何をしてもいい」という発想に繋がるということ、
そして、その状態は反省なき自己正当化を生むということを忘れてはいけないと思います。

ところが、犯罪ではない次元になると、これほどの危険性を孕んでいる発想が
世の中ではまかり通っています。
しかも、それを問題だと感じる人があまりにも少ない気がします。
たとえば、
加害者意識がないいじめ(されている側は本気で嫌がっているのに冗談で片付ける)、
他人に迷惑をかけているという自覚のない非常識な行動、
結果的に嘘をついていることになる一貫性を欠いた言動、
その場の勢いだけで行われる感情的で無責任な発言、等々、
これらは「悪意はなかった」で片付けられるものではありません。
いずれもモラルを欠いた行為であることに違いはなく、
たとえ法律には触れなくとも、道徳的には非常に問題があると言わねばなりません。
私は、いずれも人の道に反する実に恥ずかしいことだと思うのですが、
今や、子供や若者のみならず、大の大人がこういう行為を平気でする。
非常に残念なことには、この国はそういう恥知らずな人が増えてしまったために、
政治、ブラック企業、警官など官僚の不祥事、教育現場の崩壊等々、
至る所でモラルハザードに陥っているのです。

STAP細胞と小保方さんを巡る一連の問題は、
今この国の直面しているこうしたモラルハザードが、
本来そういうことからは最も縁遠いはずの科学の世界にまで及んでいることを示しており、
私は何よりもそのことに衝撃を受けました。
家庭であれ、学校であれ、「悪意がないからといって、何をしてもいいわけではない」ということ、
そして、善意か悪意かに拘らず、自らの行動・言動には必ず責任が伴うということ、
この当たり前ことを教える教育がなされていないことが、この問題の根底にあると思うのです。

ここまでの私の推論が正しいとすれば、
小保方さんは、モラルハザードによって生じたこの国の歪み(とりわけ教育の)を、
不幸にも体現することになってしまった人だということになります。
他人事として、彼女にただ可愛そうだと同情する、あるいは逆に、
改竄・捏造を行った嘘つき科学者の烙印を押して断罪する、いずれも容易いことでしょう。
しかし、上述のように考え、彼女は今のこの国の在り方(光と影の両面)を体現した存在であると
見れば、そんな安易な道はとれなくなるはずです。
彼女がその存在をして社会に投げかけているこの難問と、
この国に暮らす我々一人ひとりが向き合わなくてはならない。
少なくとも私はそう思わずにはいられません。
14年入試結果 その2
入試結果報告 その2 高校部

【卒塾生の最終進学先(全員現役)】

 神戸外大    1名
 関西大学    1名
 近畿大     1名
 関西外大(短大) 1名

【総 括】
今年度の卒塾生は5名で、4名が上記の大学へ進学、1名は浪人することになりました。
浪人したのは塾生の中で最も学力が高かった生徒なのですが、医学部志望で、しかも、
国公立大一本の受験という、最も難度が高く、一つの失敗も許されない受験でしたので、
ある程度は覚悟していた結果です。
結局、センター試験で1教科だけ上手く行かなかったこと(他の教科は概ね9割)が
最後まで響いてしまいました。
我々も医学部を受験するということが如何に難しいかを改めて思い知らされた次第です。
しかし、センター試験の失敗を前にしても、初志を貫徹して他学部や私大に逃げなかった姿勢は、
本当に素晴らしかったですし、今は自分の問題点をしっかりと認識し、
すでに来年を見据えてスタートを切っていますので、来年はきっと合格することでしょう。

しかし、毎年感じることですが、大学入試は本当にごまかしが効きません。
子供の数が減って昔に比べれば入りやすくなったとは言え、やはり有名大学に進学するためには、
高校入試なら触れずに済むような問題点も解決しておかなくてはなりません。
学力面に関しては、高度な理解力を前提とした隙のない知識と、その知識を用いた本物の思考力が
求められます。そして、それらを身につけるためには、自分の問題点から目を逸らさず、
不断の努力を続けられる精神力も必要です。
実際、どちらが欠けても、なかなか有名大学には入れません。
「普通でいい」とか「中の上を目指す」という中途半端な意識では、
学歴を手に入れることはできないのです。
また、ただ闇雲に頑張るだけでは、必要な時間が無限に増えていくだけで、
いつまでたってもかけた時間に比例するような学力向上は望めません。

こう考えると、体育会系のクラブ活動と勉強を両立し、一般入試で望む大学に入学するというのは、
ほんの一人握りの人にしかできない離れ業だと思います。
大学入試はそんなに甘くはありません。「あわよくば」は通用しないと思って下さい。
高校に進学する時点で、この現実を理解しているものだけが、
学歴を手にすることができるのかもしれません。

14年度は高校部に4名が残ってくれました。優秀な卒業生に負けないように共に頑張りましょう。






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