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勉強ができるようにならない理由
1. 外なる基準と内なる基準

 人間なら誰でも二つの基準にしたがって生きています。一つは外なる基準、もう一つが内なる基準です。

 外なる基準というのは、客観的なものです。その国の文化的な慣習や伝統、
あるいはそこから生まれる社会のルールや道徳や倫理です。
また、科学的な法則や学問的な知識、スポーツのルールもそうです。
これらは、誰かが自分の個人的な都合では変えることができない客観的で公的な基準です。

 一方、内なる基準というのは、主観的なものです。
好き嫌い(嗜好性)や、趣味、遊びなどプライベートなことに関わることの多くを決定する主観的な基準です。
生まれつきの気質もかなり関係しているでしょう。
これは、他人の権利を侵害しない限り、自分で自由に変えられる私的な基準です。

 人間は誰でもこの二つの基準を持っていますが、動物にはこの区別がありません。
動物は本能という生まれつき備わった基準しか持たないためです。
動物は自分の従うべき基準を選ぶことはできないし、学ぶことによって従うべき基準を変えることもできないのです。
その意味では動物には公私の区別はありません。
動物はそれで自然に適応できるように生まれて来るので不都合はないのです。

 しかし、人間は知らないと何もできない生き物です。
生まれたままの状態では自然に適応することさえできません。
自然との間に社会という公的なエリアを作り、それによってむき出しの自然から守られて生きているわけです。
ですから、社会の中で生きて行く限り、学習によって外なる基準を受け入れていかなくてはならないわけです。

blog20140701.png

2.外なる基準と内なる基準の葛藤と教育の役割

 社会に適応するため外なる基準を学んで行く過程で問題になるのは、内なる基準との葛藤です。
もし内なる基準で「自分はこうしたい」と思っても、それが社会的に認めてもらえるとは限りません。
たとえば、「自分はこういう仕事がしたい」と思っても、それに見合う能力があると社会的に認められないと、
その仕事には就くことができません。どんなに自分ではできると信じていても、
そこは外なる社会が求める基準に従って認めてもらわなくてはならないわけです。
つまり、外なる基準を受け入れ、同時に、それとは相容れない内なる基準は修正しなくてはならない。
でなければ、したいことをあきらめるしかありません。

 これは大きな葛藤を生みますが、思春期が終わるまでにそれを乗り越えておかないと、
社会に適応できない人間になってしまいます。
大人になるということは、外なる基準を受け入れて、内なる基準との矛盾を解消する、
あるいは、折り合いをつけるということなのです。
これができずに、内なる基準しか持たない状態、あるいは、外なる基準を受けつけないと、
社会には適応できず、ニートや引きこもりになってしまったり、
ひどい場合にはサイコパス(反社会的人格者)になって犯罪に手を染めてしまったりするのです。

 そんなことにならないように、
知・徳・体の三つの面から子供達に外なる基準を受け入れることを促すのが教育本来の役割です。
知とは科学的な知識面、徳とは心構え・メンタル面、体は体力面です。
多くの方が理解していないと思うのですが、この三つはセットです。
最終的にそのうちのどれに重きを置くかは、その人の目指す進路によって変わりますが、
義務教育期間までは、バランスが取れていることが望ましいのです(一握りの天才を除きます)。

 多くの方が、体と徳の二つの面については当然セットだと考えています。
スポーツをする際にはフィジカル面(体)と同時にメンタル面(徳)を鍛えるのは当然だと思うでしょう。
しかし、知と徳という組み合わせになると、なぜか切り離して考えてしまうようです。
これは戦後教育から修身という教科がなくなったことと関係していると思われますが、
実は、知識面もメンタル面が大きく影響するのです。

 たとえば、時間を守る、人の話をきちんと聞く、ノートをきちんと取る、宿題をきちんとやる、
と言ったことは勉強における基本ですが、すべて心構え(徳・メンタル面)の問題です。
こういうことをおろそかにして、知識の習得はあり得ません。

 また、勉強に内なる基準を持ち込むことも誤っています。
もっとも分かりやすいのが、好き嫌いでしょう。得意不得意は誰にでもあります。
しかし、それを好き嫌いと一緒くたにしてはいけません。学問は、実は好き嫌いとは無関係です。
たとえば、「1+1が2になるっていうのが俺はムカつく」と言うのが、
どれほど奇妙なことかを考えればすぐに分かるでしょう。
しかし、多くの方が「嫌いだからできない」のだと勘違いしておられるようです。
それを言うなら、「好き嫌い」で判断しようとするから、できるようにならないのです。


3. 勉強ができない子の特徴

25年に渡って千人をゆうに越える生徒を見てきた我々の経験から言わせて頂くと、
中学までの義務教育範囲を学習するのに才能はいりません。
にもかかわらず、はっきりと優劣が生じる最大の要因は、外なる基準を受け入れられるかどうか、
言い換えれば、内なる基準を優先してしまうかどうか、なのです。
ほとんどの場合、勉強ができないのは、知能面で劣っているわけではなくて、
内なる基準が強すぎて、主観的にしか物事を見られないというメンタリティ(徳性:心の在り方)にあるわけです。

ですから、勉強ができない子の特徴を挙げると、
〇何でも好き嫌いで判断しようとする、
〇感情の起伏が激しい、
〇一つのことに集中できる時間が短い、
〇人と上手くコミュニケーションを取れない、
〇自分の発言に責任が持てない(自分で言ったことをすぐ忘れる)、
〇語彙が少ない、

ということです。
これらは、心理学的に言うと、実はどれも幼児の持つ特徴です。
外なる基準を受け入れる努力をしなかった人というのは年齢に比して幼稚だということなのです。
そういう子は、算数で習うような客観的な事柄、たとえば、
長さや重さを客観的に測定するための外なる基準である単位の変換方法(kmをcmに)を
いつまでたっても覚えないということがおきます。


4.勉強ができるようになるためには

つまり、勉強ができるかどうかは、外なる基準を受け入れられるかどうかという点にかかっていることになります。
そのためには、内なる基準を修正しなくてはならないことが多いのですが、
それができない子が年々増えています。
彼らは内なる基準を修正することを嫌がって、なかなか外なる基準を受け入れようとしません。

 しかし、先に述べたように、そのままでは社会に適応することはできませんから、
彼らは将来のニート予備軍、引きこもり予備軍ということになってしまいます。
我々は教師として、また一人の大人として、
子供達のそういう状態を見て見ぬフリをするのは卑怯だし、無責任だと考えています。
ですから、そういう子には厳しく接しますし、外なる基準を受け入れるように強く働きかけます。
残念ながら、結局それを拒んで退塾してしまう子も少なくありません。

しかし、そういう辞め方をした子で後に成績が上がったという子供は見たことがありませんし、
そのほとんどがその後仕事に就けていないか、せっかく就いた仕事も続いていないのです。
こうした事実が示すように、我々が行っている教育は子供達の将来を占う試金石であり、
また、そういう教育を提供して来たことを我々は誇りに思っています。

新風館は、一般的な塾のように、ただ知識だけを教え、手っ取り早いテストの得点法を教える塾ではありません。
入塾なさる際には、どうかその点をよくご理解のうえ、ご入塾くださいますようお願い致します。