FC2ブログ
新風館通信
迷走する教育       道しるべでいたい



プロフィール

M.Kaze

Author:M.Kaze
新風館のブログ(ハードタイプ)
北風のブログ



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



すべての「学び」は「躾け」から
多くの人(親御さん、多くの教育関係者も)が気がついていないことがあります。
それは「あらゆる学びが、実は、躾に始まる」ということです。

特に「成績が上がらないから」という理由で通う塾を次々に変える人は、
このことが全然分かっていないんじゃないでしょうか。

何かを子供ができるようになるまで教えてみれば、すぐに分かることなのですが、
教える側が何度同じことを言ったところで、それがきちんと記憶されるかどうか、
つまり、教わった知識なり技術なりをきちんと身につけるかどうかは、
一に教わる側の人の意識の問題だということです。

人間というのは、記憶していることしかできない生き物です。
これは勉強に限りません。普段、無意識にやっている体の動き一つにしてもそうです。
たとえば歩き方。歩くときの筋肉の動かし方の情報がすべて脳に記憶されているから、
我々は歩くことができる。

また同時に、人間は忘れる生き物でもあります。
聞くところによると、人間の脳は見たこと聞いたこと感じたこと全てを蓄えているそうです。
しかし、それでは身(心)がもたないので、自分が必要と判断したことだけを記憶しておき、
それ以外のことは自動的に忘れるように出来ているのです。
つまり、その人に見る気がなければ視界に入っていても見えないし、覚える気がないことは覚えない、
そういうふうに出来ているわけです。

ですから、勉強についても、たとえどんなに上手に教えようと、
本人に覚える気がなければ、記憶には決して残らない。言い換えれば、
本人に学ぶ気がないことは、いくら教えてもできるようにはならない。
そういうものなのです。

これは、生物としての人間に備わっている基本的な仕組みですから、
いくらお金を払ったところで、変えられるものではありません。
結局、「学びは、一に学ぶ側の意識にかかっている」ものなのです。
平たく言うと、本人の「学習意欲」の有無にかかっているわけです。
もっと簡単に言えば、「やる気」の問題なんですね。

ですから、我が子にできる人間になってもらいたいと望むのであれば、
まず御家庭で、勉強に限らず何事にも一生懸命取り組む姿勢を持った
「やる気」のある子、「学習意欲」が旺盛な子に育てなくてはならないわけです。
これこそ家庭教育の担うべき役割であり、この姿勢さえ身につけさせれば、
親としての仕事のほとんどは終わったようなものと言ってもよいくらいです。

実際、この姿勢さえ身についていれば、勉強はもとより大概のことはすぐにできるようになります。

この姿勢の対極にあるのが、「だるい」「しんどい」「面倒臭い」でしょう。
そういう「やる気のない」子供達は「知らん」「わからん」を連発します。
そういう子は、それがさも当然のことであるかのように、また、吐き捨てるように、言います。
こういうネガティブな姿勢は、勉強に限らず、あらゆる能力の向上を著しく阻害します。

なぜなら、こういう科白が出てくるのは、「知らなくて当然」「わからなくて当然」「できなくて当然」
という意識が前提としてあるからです。それは取りも直さず、
「知ろう」「わかろう」という気がなく「できるようになろう」という姿勢が欠如している証拠です。

こういう子供達に「やる気」を起こさせようとして、
多くの大人がよくやってしまう致命的な過ちが、お金やその他の褒美で釣るというやり方です。
これは「やる気」や「学習意欲」の向上に利があるどころか、実際には完全な逆効果にしかなりません。
というのも、一度そういうことを経験してしまうと、それ以降は何をするにしても、
それをやれば「何か得がある」という条件がない限り、何もやらなくなってしまうからです。

どうしてそれがいけないのか。
それは「学び」というものが、本来、そういう打算的な考えとは無縁のものだからです。
人間は学ばないと何もできない生き物ですから、生まれた瞬間から「学び」が始まるのですが、
赤ん坊が何かを学ぶ際に「これをやれば得かな」といった損得勘定をする(できる)ものでしょうか?
たとえば、我々はその方が得をするからと思って言葉を覚えたのでしょうか?
もちろん、そんなことはあり得ない。
そもそも言葉を知らないのに損得勘定なんてできるはずがないからです。

ここで気がついて頂きたいのは、赤ん坊でなくても、何かを「学ぶ」以前の段階では、
その知識や技能を修得した後の状態は決してわからないはずだということです。
ですから、それを学ぶと「得かどうか」なんてことは実は学ぶ前にわかるはずがないんです。
いやそれどころか、そもそもそれを判断する能力がないからこそ「学ばなくてはならない」はずなのです。

この業界では生徒集めのために「学ぶことは楽しい」といった耳ざわりのよいフレーズを使います。
しかし、実際には、(少なくとも初めのうちは)「学びとは苦しいもの」なんです。
歩くのを覚えるためには、何度も転んで痣を作るでしょう。自転車に乗る練習はもっと痛い思いをする。
一から母国語を言葉を覚えるというのは、きっと外国語をマスターするより遥かに大変なはずです。

そうです。何を学ぶにせよ、少なくとも初心者の間というのは、しんどいし、とても大変なものなんです。
しかも、やり始める前には、それをできるということがどういう状態かを知らないし、わかるはずもない。
しんどいし大変なのに、それができるようになっても得をするかどうかさえわからない。
つまり、「学び」というのは、打算(損得勘定)とは全く無縁の、
ある意味とても理不尽な状態に身を置くことから始まるものなのです。

ですから、「学ぶ」にあたってまず必要なのは、
こういうある種理不尽な状態に身を置くことを素直に受け入れる姿勢なんです。
道場の師匠風に言えば「打算などという小賢しさは百害あって一理なし」です。

ですから、何か交換条件を出して子供に勉強させようなんて、絶対にやってはならないことです。
実際、我々は、親の出した交換条件のために勉強している子供で、できる子というのを見たことがありません。

結局のところ、能力差というのは、才能なんかじゃなく、
この姿勢を身につけているかどうか、つまりは「学び」の上手下手にかかっていると言っていいでしょう。

「学び上手」な子供になってもらいたければ、小賢しい損得勘定など捨てさせなくてはならないのです。
それは取りも直さず、教える側の大人(親)が、そういう損得勘定を離れなくてはならないということです。
これ、実は当たり前のことです。

損得勘定から子供を作ったっていう人はいないと思います(個人的にそうであって欲しい)し、
そうして出来た我が子を愛する気持ちに損も得もないでしょう。
だとすれば、子供に必要なことを学ばせるにあたって「得をするからやれ」というのはおかしい。
そんなことをすれば、愛情さえ損得でしか捉えられない、心の荒んだ人間になってしまうでしょう。

そういえば、最近ニュースで「結婚はコスパ(コストパフォーマンス)が悪い」と考えている
20代の若者が多いという記事を読んで、暗澹たる気持ちになりました。
教育が損得でないという以上に、愛情は損得でないと思うのですが。
こういうことを言う若者たちの多くは、きっと自分のことを賢いと思っているんでしょうが、
我々に言わせれば「学び上手」でないことは明白です。
彼らが、学ぶに当たって理不尽な状態を素直に受け入れられる姿勢を持っているはずがないからです。

先程、能力差は才能の差ではないと言いましたが、誤解のないように言っておきますと、
才能の違いというのは確かにはあります。しかし、我々の経験上、
才能には恵まれていないが「学び上手」な子と才能には恵まれているが「学び下手」な子を比べると、
数ヶ月もすれば、前者が圧倒的に差をつけて勝ちます。
これが一生となれば一体どれほどの差がつくのか、想像もつきません。

ですから、ほとんどの分野では「学びの上手下手」に比べれば「才能の有無」など取るに足らないものです。
さらに、「学び上手」な人というのは目上の人からもその将来性を高く評価してもらえるはずですから、
社会に出る時も、また出てからも圧倒的優位に立つことでしょう。

これほどまでに重要な「学び上手」のコツ=ある種理不尽な状態に身を置くことを素直に受け入れる姿勢、
というのは、その理不尽さ故に、学問的なものと言うより「躾け」の領域に属することです。

たとえば食事。学問的に考えればそれは「栄養をバランスよく摂取すること」でいい。
それ以外のこと、箸の持ち方や食べ方等の行儀作法なんかは、学問的な理由はない(ある種理不尽なもの)です。
しかし、学問的に理由がないからと言って、どんな食べ方をしてもよいという御家庭はおそらくないでしょう。
それが「躾け」の領域なのです。

従来、この国では、「学び上手」のコツを教えるのも、家庭での「躾け」の一部だったのだと思います。
これは我が国が世界に誇るべき文化でもあり、財産でもありました。
他国に比べて「学び上手」の人間が圧倒的に多かったことによって、
江戸時代には世界で最も識字率の高い民族となり、さればこそ、
幕末から明治維新にかけては植民地化を免れることができ、
戦後は世界から奇跡と賞賛される経済発展を成し得たのだと私は思っています。

ところが今、この文化・財産はこの国から急速に失われつつあります。
それと軌を一にして、子供達の学力低下がどんどん加速しています。
昔は、入塾時点でこのコツを知っている子が多かったため、学問的なことをしっかり教えさえすれば
すぐに勉強ができるようになる子がたくさんいました。
しかし、今では入塾時にすでに「学び上手」な子というのはまずお目にかかりません。
残念ながらほとんどの子供はまず「躾け」から始めなくてはならない状態なのです。

当たり前のことですが、この「躾け」が一番しんどい。
それこそ中学になってから入塾した子供達は10年以上「躾け」られずにやって来たわけで、
それを今更直せと言うのですから、大変なのは当然です。
教えるこちらも、子供が嫌がることを何度も言ったり、何度もさせたりしなくてはなりませんから、
決して気持ちのいいものではありません。

しかし、もちろん、そこを「躾け」ないと、結局できるようにならないことが分かっているので、
我々は決して手を抜かずにこの「躾け」をします。すべての「学び」は「躾けに始まる」のですから。

(次から次へ塾を変える人、「塾というのは、ただ勉強を教えるだけの場所」であって、
 我が子ができないのは「教え方が悪いからだ」という認識でおられる方ほど、
 こうした本来家庭で行われるべき「躾け」の重要性に気づいておられないように思います)

新風館が、テストで入塾の合否判定も行わず、また、入塾希望者をお断りしたこともないのに、
上位校への高い合格率を維持して来たのも、この「躾け」を大切にしているからです。

ただ、正直、ただ学問的なことを教えるだけで済むのであれば、
この仕事がどれほど楽で、どんなに楽しいか、と思うことはありますが。