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継続は力なり
「継続は力なり」

聞くところによると、
この国では座右の銘にしたい格言の第一位だったそうですが、
今や死語になりつつある気がするのは私だけでしょうか。

「何かを我がものにするというのは、一朝一夕にできることではない」

当たり前のことです。そんなの常識ではないですか。本当はそういう反応が返って来てほしい。

教育学の書物によると、「1万時間の法則」というのがあるそうで、
運動であれ、勉強であれ、完全にものにするには実際そのくらいの時間がかかると言います。
これは長くこの仕事をしてきた我々の実感とも一致します。

毎日欠かさず4時間費やしたとして2500日=7年弱の歳月を要することになり、
毎日5時間でも2000日=約5年半です。
しかし、一つのことだけに毎日5時間というのは実際にはほとんどあり得ない。
たとえば、英語を習得しようという場合、
英語だけを毎日5時間勉強するというのは、ちょっと難しいと分かるでしょう。
これは、大学で英語を専門にした場合には可能かなというレベル。

普通は、よく頑張って毎日2~3時間くらいが精一杯でしょう。
毎日2時間として5000日=13年半ちょっと、3時間できれば9年とちょっと。
現実には、休日もあることを考えれば、
毎日に2時間半、4000日=10年とちょっとというのが現実的なラインではないかと。
つまり、何かを完全に習得するには普通10年はかかるということなんです。

しかも、たとえば3年は続けたけれども4年目は全くやらなかったとすれば、
ゼロには戻らないにしても、それまで身に着けたものの多くは失われてしまいますから、
続けて10年でなくてはならない。まさに「継続は力なり」なのです。

しかし、「英語を自由自在に使えるようになりたい」と思う人自体は、
かなりの数に上るでしょうが、実際に10年続けて頑張れる人というのはそういない。
結果、自由自在に英語を操れる人は少ないわけですね。

特に、今のように世の中の変化が速い=移り気な時代には、
何でももっと速く、短い時間で何とかなるんじゃないかという気がするのかもしれませんね。
昨今、何でもスパンが短いですから。
大々的に報道された事件が忘れ去られる早さ、流行り廃りもびっくりするほど速い。

しかし、どんなに世の中の変化や進歩が速くても、
人類が生物学的に進化したのでない以上、
そんなに短い時間でなにかができるようにはなるはずがありませんよね。
我々が人間である限り「1万時間の法則」は揺るがないのです。

ですから、我が子の将来を思うのであれば、
家庭で子供に教えるべきなのは、勉強そのものではなくて、
何か一つのことを継続することの大切さ、
さらに言えば、それができる家庭環境を整え、継続性のある強い心を育むべきでしょう。
間違っても、目先の成績を云々するだけといった、
短絡的で狭窄な考え方を子供に押し付けてはいけないのです。

今ふと思ったのですが、この話、
料理人の修業を考えれば分かりやすいんじゃないでしょうか。
本当に美味しいものを造れるようになるまでには、それこそ10年はかかるでしょう。
どう考えても、2年や3年でどうにかなるようなもんじゃない。
インスタントラーメンの作り方を覚えるのとはわけが違いますからね。

でも、もしかすると、昨今では大人も子供も、
勉強をインスタントラーメンと勘違いしている人が多いのかもしれません。
しかし、それじゃ老い先知れたものと言わざるを得ません。
インスタントラーメンしか作れない料理人がいるはずがないのと同様、
その状態では社会に出てもどうせろくな仕事はできませんから。

要は『「継続は力なり」ということを何かの分野で体験し、実感しているかどうか』が
一番大切なんです。たとえ、それが自分が仕事にすることになったことと関係がなくても。
一つのスポーツを続けて来た人は年収が高いというデータがあるそうです。
それはまさに、仕事を習得するのに不可欠な継続の重要性を体得しているからだと思います。

我々はこの大切さを子供たちに日々説いているつもりです。
ですから、このことを理解してくれた子供たちは当然のことながら長く当塾におります。
一日のうちの時間はもちろんのこと、在籍期間についてもそうです。
短くても5~6年、長い子になると大学に進学する時点で人生の半分以上という時間です。
それでも、一つのことについて1万時間という時間にはなかなか及びません。
ですから、大学に進学して当塾を卒業していく時点で、
塾生たちはみんな、自分達がまだ道半ばであることを承知しています。
彼らはちゃんと「合格して終わりではないのだ」ということを理解しているのです。

昨年度に山口大学へ進学して行った塾生も、一昨年度に京都大学へ進学して行った塾生も、
同年に弘前大医学部へ進学して行った塾生も、みな同様の言葉を残していきました。
彼らは、今でも半年に一度は来塾して、自らの進化を後輩たちに見せてくれています。

「自分なんてまだまだですよ」 彼らは口を揃えて言います。本当に頼もしい限りです。

合格したことに安堵して、勢い遊び回るだけの大学生とは大違いです。
有名大学へ進学してなお、その立場に安住することなく自らを磨く、
そういう人にこそ明るい未来は訪れるのではないでしょうか。

我々は、目先の成績のことで頭が一杯なんていう生徒の視野を広げ、
もっと腰を据えて、継続した学びに入ってくれるよう日々努力を重ねています。
「わかりやすい」のは良いことか?
何でも「わかりやすい」というのは本当に良いことなのか?
難しいことを分かりやすく教えることを生業にしている人間が、こんなことを言うとお叱りを受けそうですが、
分かりやすく教えることの、難しさと限界を知っているからこそ、その弊害もよく見えるのだと思って頂けると幸いです。

今や「わかりやすい」ということは、
ありとあらゆる分野で暗黙の前提になっていると思います。
テレビ番組や芸人の芸風などの娯楽に始まり、マスメディアによる報道、
個人が自由に発信できるツイッターやインスタグラム、SNSに至るまで、
「わかりやすいのを良しとする」という風潮は、それこそ社会の隅々まで行き渡っています。

私が危惧しているのは、この風潮が行き過ぎると、
「どんなことでも、時間にして数十秒、せいぜい数分の説明を聞けば理解できるものだ」
と勘違いしてしまう人が増えるのではないか、ということです。
十分な批判能力がまだ備わっていない子供たちは特に危ない。

何でもわかりやすいのが当然だと思ってしまうと、
「どんな分野でも、長年の努力の積み重ねがあって初めて、本当に理解できるようになる」
という至極当たり前のことが忘れ去られてしまう。
社会問題など色々な要素が組み合わさって起きるような、複雑な問題についても、
短絡的で浅薄な見方が横行することになってしまいます。

そういう社会に暮らす個々の人間は、
この世に自分には分からないことが存在するという単純な事実も受容できなくなる、
むしろ、もし自分が理解したいと望みさえすれば、世の中のあらゆる事象は、
自分にとって瞬時に理解できるものだと勘違いしてしまうかもしれません。
この認識に立つと、結局のところ「自分に理解できないことなどない」というある種の万能感に行き着かざるを得ない。

実際、近年の中学生たちは、恐ろしいことに、
「この宇宙で人類が解明したことは全体の何%になると思うか」という質問をすると、
「80%~90%」と答える子供が多く、中には平然と「全部(100%)」という子もいます。
もはや神の領域ですね。

低く見積もる子でも、50~60%というのが一般的で、一桁%と答える子は、非常に少ない。
本当はコンマ以下もいいところなんですけども、そう答える子はごく僅かです。
ほとんどの子供は、ほとんどの事象について、正解はすでに分かっていて、
それがテストに出るものと思っているわけですね。

実際には、これまでの人類の叡智を結集しても、この世にはわからないことだらけなわけで、
だからこそ、人類は無数にある謎を一つでも解こうと、日々学び、前進する努力をしている。
日常の社会生活においても、正解なんて分からないことの方が多い。
子育て一つとっても、本当はこれが正解というやり方などありません。それが現実世界というものです。

そこで生きてゆく人間にとって重要なのは、
「学んだことをもとに、現実の諸問題をどう解決するかを考えること」です。
したがって、そういう人間を育てるためにある教育が、本来目的とすべきは、
学びを通じて自分の勝手な思い込みを排除し、
正しい解を導き出す頭の使い方を習得することであるはずです。

しかし、何でも短絡的に理解できるものと思い込んでいる人(特に子供)は、
何かについて、自分で努力して深く学び、そうして学んだことによって、
それまで自分の間違いに気づき、現実認識を修正してゆくという、
人間として成長するために本来なら不可欠であるはずの道程を、
歩むということ自体ができない人格構造になっているのです。
そういう人は、おそらく主観的には、わざわざ苦労してそんな道のりを歩む必要性すら感じないのでしょう。

そういう人にとって、現時点で自分には分からない事柄というのは、
自分が望みさえすれば、「いつでも分かるようになるはずのもの」、あるいは、
「いつか誰かが自分に分かりやすく説明してくれるもの」ということになりますから、
それを理解するために自分が苦労したり、努力したりする必然性がないものということになるのでしょう。

彼らは、たとえ何か分からないことにぶつかったとしても、
「今の自分にはそれを本気で理解しようという気がないから分からないんだ」とか、
「今は別に本気で理解したいとも思わないし、別にいいや」と片付けてしまうでしょう。
こうして、彼らは自分の無知を自覚し、学び始めるチャンスをふいにし続けていくのです。

現実には何も知らないし、何も分からないままであるにもかかわらず、
潜在的には何でも分かるということにしておくことによって、
主観的には「知らぬが仏」的無敵状態(客観的には無知無能状態)を維持するのです。

そして、そういう人は「そういう自分は正しい」という絶対的な前提に立って外の世界を見ますから、
身近に優れた人がいたとしても、その人のレベルに少しでも近づこうと努力しようという発想すら持たないのです。
実際に自分でやってみなければ、努力をしてみなければ、
高いレベルにある人の苦しみや悩みを理解できるはずもないですから、
そういう人にとって、優れた人というのは、嫉妬の対象にはなっても、尊敬の対象にはなり得ないのです。

努力をすれば、自分が如何に情けない状態なのか、気づきます。気づかざるを得ません。
もしかすると、そういう惨めな気持ちを感じたくないから、「知らぬが仏」的無敵状態を維持しようとするのかもしれません。
でもそれは「恥の上塗り」を続けるだけのことです。

安易に「わかった気になる=自分を誤魔化す」のは実に簡単です。
一方、「自分は本当にわかっているのか=短絡的な説明に誤魔化されてるんじゃないか」
そう自分に問い、正直に答えるのはとても困難です。

長年この仕事を続けてきて感じるのは、「安易にわかりやすい説明に逃げないこと」
これが出来る人と出来ない人を分ける試金石だということです。


このように「わかりやすい」ということは、良いことばかりとは限りません。
メディア等で、自分の専門とする事柄に関する報道を見聞きすると、違和感を覚えることがあると思います。
「本当はちょっと違うんだけどな」と。
これは、自分が本当に知っている・わかっている分野の場合、
報道の情報が如何に浅薄で表面的な説明に終始しているか理解できるからです。

不特定多数に向けた報道というのは、本来そういうものなのであって、報道内容を全て鵜呑みにするべきものではありません。
こちらが、その情報をどう読み解くかが重要なのです。
情報過多の現代社会に生きる人間はこのことを十分承知しておく必要があります。
ちなみに、メディアリテラシー(今では中学生の国語の教科書に出てきます!)というのは、そういう意味ですよね。

「わかりやすい説明」というのは、どうしても実態とズレる点がある。
この事実を念頭においておかないと、何でもわかったような気になる危険性があります。
したがって、何かについて「わかりやすい説明」を受けたときは、
その背後にたくさんの「わからないことがある」と考えておいた方がいい。
何かを「知るということは、もっと知らないことがあるとわかるということ」です。
だから「何も知らない人ほど何でも分かっている気になる」のです。

まさに「知らぬが仏」。主観的には全知全能、客観的には無知無能です。
実はこれ、心理学で言うところの、生まれたての赤ん坊の状態なんです。
人としてこれほど恥ずかしい状態が他にあるでしょうか?

子供がそういう状態であることに気づかずにいる親御さん方、
「子供は褒めて育てる」なんていう「わかりやすい」子育て理論に安易に乗っかってはいませんか?
本当に我が子の将来を考えるのであれば、心を鬼にすることも必要なんじゃないですか?

赤ん坊が、自分が全知全能ではないと気づくのは、望むときに望むようにお乳が与えられなかったり、
気持ち悪いのになかなかオムツを取り替えてもらえなかったり、そういうストレスやフラストレーションを通じて
「どうやら世界は自分の思い通りにはならないらしい」と感じるからです。

赤ん坊でなくても、人間が成長するうえで、
ストレスやフラストレーションを感じないなんてことが果たしてあり得るでしょうか?
「褒めて育てる」ということが、子供が何のストレスも感じないように、
その子のあるがままの状態をただ肯定してやるということなのであれば、
そもそも教育なんて必要ないのではありませんか?
本来「褒める」というのは「努力したことへの称賛」であるべきではないのですか?
何の努力も苦労もしていないのに褒めるのは「おだてる」というのではないですか?

かように、実は「わかりやすい」ということに潜む危険は大きいものです。
世の中に蔓延する「わかりやすい」=「耳障りのよい」話には、皆様どうか御用心を。