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学習のスキーマ
人間というのは、生まれたままの自然状態では、この世界(自然界)に適応することもできない、
実に奇妙な生き物です。

そのためなのか、人間はこの世界をありのままに見るということが出来ません。
「この世界はこういうものだ」という主観的な解釈を前提にしてでないと、
この世界を見ることも、理解することも出来ないのです。
どうあがいても「世界を客観的に見る」ことは出来ない生き物なんです。

したがって、みな「自分の外にある世界はこういうものだ」という解釈をし、
その解釈に基づいて、独自の(主観的な)世界観を構築します。
そして、自分はどうすればその世界に上手く適応できるのかを考えるのです。

適応するにあたっては、誰もが、自らの解釈した世界で上手く生きていくために
自分にとって必要なこととそうでない事を判断しなくてなりません。
「あれは自分にとって必要だけれども、これは不要だ」というように、
誰しも、自分が身につけるべき知識やスキルの取捨選択を行っているのです。

その知識やスキルは自分の生まれた時代や文化、民族によっても左右されます。
たとえば、狩猟採集民として生まれれば、食べられる植物の知識や狩りのスキルを
身につけないことには生きてゆけません。その意味では選択の余地が極めて少ない世界です。
しかし、現在の日本に生まれた人間にとっては、
それこそ無数の選択肢があると言っていいでしょう。

たとえば、ある女の子が、
この世界を「若くて可愛いことが最も重要なところだ」と解釈すれば、
きっと、流行についての知識を仕入れ、
ダイエットの知識を仕入れ、ファッションセンスや化粧のスキルを磨くことを選択するでしょう。
そして、もしその子が、
「この世界に適応するのに、勉強ができることは必要ない」と判断すれば、
他人(教師や先輩親兄弟も含む)が、いくら口を酸っぱくして「勉強しろ」と言ったところで、
聞く耳を持たないはずです。
彼女は、知性に関わることを一切必要としないはずの世界に生きているのですから、
勉強しないのが当然なのです。

このように、
ある人が「勉強ができるか、できないか」あるいは「勉強するか、しないか」は、
何よりもまず、「自分の解釈した世界が一体どういうものか」という問題なのです。
もしその人がこの世界で生きていくうえで「勉強は必要なことだ」と感じていれば、
それこそ、親兄弟がどんなに「やめろ」と言ったって勉強することでしょう。

ですから、もし「この世界で生きていくのに勉強は必要ない」と思っている子供に、
本気で勉強させようと言うのであれば、まずその子の世界観を変えなくてはなりません。
これは、本来なら、家庭で対処すべき問題であって、他人に委ねるような仕事ではないと思います。

現代の先進国の社会においては、
子供が世界観を形成するのに最も大きな影響を与えるのは、間違いなく家庭だからです。
その次に影響力があるのが友人関係でしょうか。
学校の教師や我々のような塾の講師なんていうのは、所詮は他人、
子供の世界観の形成に関わるようなことについては、大した影響力など持っていないのです。
しかも、最終的な解釈の決定権はあくまでも本人にあります。
本人がその気にならない限り、周りの人間がどんなに頑張っても、変わらないのです。
その子の頭の中に入り込んで脳の神経細胞の配線をつなぎ直すなんてことが出来ない限りは。

「勉強など不要だ」という世界観の下で生きている子供に勉強をさせるためには、
本人が、何かのきっかけで「世界は自分が思っていたのとは違うかもしれない」と気づき、
「勉強することも必要かもしれない」と認め、
「ちょっとやってみようかな」と思い始めなくてはならないのです。
そうなって初めて、本当の学習が始まる。
我々に出来るのは、その子の世界観の欠点を的確について、
本人の世界観の修正を促すことくらいです。

もとより、我々も勉強させることを生業としているからには、
勉強が出来ない子の世界観を正すべく最大限の努力はしておりますが、
全ては、最終的に本人が気づきその気になるかどうかに懸かっているのですから、
その子の世界観が変わるのが、半年後になるのか、1年後になるのか、
はたまた、一生変わらないのか、実際のところ分かりません。

ですから、もし親として我が子に一生懸命勉強してもらいたいのであれば、
そもそもご家庭で、その子が世界観を形成し始める以前の幼い頃から
勉強が如何に大切かということを理解させなくてはならないのです。
これは、「勉強しろ」としつこく言うことでも、早くから塾へ通わせることでもありません。

一番効果的なのは、親が進んで何かを学んでいる姿を子供に見せることでしょう。
子供にとって、家庭が「生きていくうえで何かを学ぶのは当たり前だ」
と感じる環境であるかどうかが決定的に重要なのです。
これこそ、前回の記事で述べた「文化資本」の最たるものでしょう。

当たり前のことですが、親の世界観が子供の世界観の雛型なのです。
だからこそ、
高学歴の親を持つ子供はやはり高い学歴を手にし、
そうでない親の子供はまず学歴を手に出来ない、
そういう現実があるのです。

自分が高学歴を望めるような文化資本を子供に提供するのは無理だとお考えなら、
自分の子供が勉強しないことを受け入れる必要があります。
「それが嫌だから高いお金を払って塾へ通わせるんじゃないか」と言う方もおられるでしょうが、
同じ授業を受けているのに、知識をどんどん吸収する子供と、ほとんど習得できない子供がいる
という事実から目を背けてはいけません。

我々が教えるのは何よりもまず方法論です。
当たり前のことですが、目的のない方法論などありません。
勉強とは、この世界を科学的に理解するため、あるいは、この社会を論理的に把握するため、
その目的のための方法論を学ぶものです。
学問は、高い学歴や成績を取ることを目的とするものではありませんし、
学習する個々の事柄自体、決してそのようには出来ていません。
したがって、勉強(学問)は、
そもそも、世界を科学的に理解しよう、社会を論理的に把握しようという気がない者にとっては、
何の意味もない、ただただ無味乾燥なものなのです。

本来の目的を共有していない者に、いくら方法を教えたところで身につくはずがありません。
それは、野球をするつもりがない者に、無理矢理バットを振らせるようなものだからです。
その状態では、どんなに良い塾へ通わせようと、出来るようにはならないのは当然です。

「子は親の鏡」です。これは何人たりとも否定できません。
ですから、
子供に勉強させる以前に、まず親自身が、
「この世界を科学的に理解しようと思っているか?この社会を論理的に把握できているのか?」
あるいは、
「自分の主観的な解釈に固執して、世界を正しく見ることができないのではないか?」
と自問してみるべきでしょう。

子供の世界観を変えたければ、まず自分の世界観を疑い、変える努力をすべきなのです。
自分はそういう努力もせずに、子供を無理矢理机に縛り付けたところで(しかもお金まで払って!)、
子供から憎まれるのがオチです。必ず子供はこう思うでしょう。
「自分はやらなかった(やらない)くせに」

つまり、勉強しない子供に勉強させたいのであれば、まず親が努力しなくてはならないのです。
具体的には、親が進んで何かを学ぶことでしょう。
ご家庭が、子供から見て「大人になっても学ぶものなんだ」と感じる環境であれば、
むしろ子供が勉強しないでいる方が勇気がいるでしょう。
そして、親が何かを学ぶのを楽しんでいる姿を見れば、子供が学ばないはずがないでしょう。

じゃあ一体何を学べばいいのかと言えば、はっきり言って何でもいいのです。
自分が学んでいることが子供に伝わるのであれば、趣味のレベルで十分です。
ただし、続けなくては意味がありません。
新しいことを始めてみるのもよいですが、あれこれ手を広げ過ぎるのはお勧めできません。
できれば一つのことを深く掘り下げるのがいいでしょう。

普通の人が知らないことを知っていたり、普通の人に出来ないことが出来たりするのは
子供から尊敬されるものです。
子供が親に尊敬の気持ちを抱いていれば、将来に渡ってより良い親子関係を維持することも出来るでしょう。

子供に何かをしてやるよりも、自分が何かをしましょう。
自分が子供に何をしてやるかよりも、子供が自分達から何を感じ取るかに注意を払いましょう。
そして、まず親の自分が楽しんで何かを学びましょう。
そうすれば、放っておいても子供は自分から進んで学ぶようになるのです。
学歴は遺伝する!?
学歴は遺伝する!?

「親の学歴は子供に遺伝する?」もちろん、生物学的に言えば、そんなはずはありません。
しかし、現実に父親が大卒の場合と父親が高卒の場合では、
前者の方が7.5倍も大学に進学する確率が高いそうです。

これを「知能(頭のよさ)が遺伝するから」と考えるのも間違いでしょう。
我々の経験上、遺伝による頭の良さというのは、天才の域の話です。
天才的な頭の良さを持った人はそんなにたくさんいません。
それこそ東大・京大レベルの大学に行かないとお目にかかれないものです。
もちろん東大生や京大生がみんな天才であるわけではなく、その中でもごく一部です。
ですから、たとえそういう人には勝てなくても、学歴を手にすることは出来るのです。
高学歴を手にするのに天賦の才能はいらないのです。
もちろん、うちから京大へ行った卒業生も天才ではありません。
初めから答えの分かっている天才は、そもそも教育できないし、
教育の必要もない人のことですから。

では、なぜ父親が大卒だと大学に進学する確率が7倍以上も高くなるのでしょう。
親の収入もかなり大きく影響するのですが、それ以上に大きいのが、
「文化資本」の差だという社会学の研究結果があります。
文化資本というのは、学歴、自宅の蔵書量、芸術への嗜好など、
親が子供に与える有形無形の文化的な資産のことを言います。
これは親がお金持ちかどうかということとは違います。

子供の学力と親の収入の相関係数は+0.7569であるのに対し
子供の学力と親の学歴の相関係数は+0.9135にも上ります。

親の教養の豊かさ(これと学歴はある程度比例するものでしょう)によって、
その家庭がアカデミックな環境を作るかどうかが決まって来るわけです。
親が関心を寄せる事柄が文化的にどういう水準にあるかによって、
子供の学力は大きく変わるということです。
もう少し噛み砕いて言うと、
たとえば、休日に美術館や博物館に行くことを楽しむ親と
そういうものに全く関心のない親とでは、
前者の親の方が子供に与える文化資本が豊かであるということ、
そういう親を持つ子供の方が確実に学力が高くなるということなのです。

子供は、自分の親が関心を持たない分野に接する機会はほとんどないため、
親の関心は、そのまま子供の関心に反映されることになります。
こうして、文化資本が親から子へ伝えられ、
結局、そういう人達が何代にも渡って社会の上層部を占めるようになるそうです。
(社会学者ブルデュー『文化的再生産理論』)。
その結果として、学歴が遺伝する「ように見える」のでしょう。

これは、社会的な分断を生み、格差の問題にも繋がって来ます。
「社会に出れば学歴なんて関係ないというのも、あくまでも大学卒同士の間の話であって、
高卒の人にはガラスの天井があって、どんなに頑張っても大卒と肩を並べることはできない」
と言う方もおられますし、
「大卒と高卒では同じ日本で暮しているのに同じ国には見えない」とさえ言います。
それほどまでに今、社会の上層と下層で分断が進んでいるということでしょう。

私自身はこの分断線を越えるのがそんなに難しいとは思っていなかったのですが、
こういう研究結果や取材記事を見る限り、
この国の社会的な分断は相当に深刻な状況にあるようです。
大企業の中でも、大卒のホワイトカラーの地位は安泰だけれども、
高卒ブルーカラーはいつリストラされるか分からないという不安に怯えなくてはならない
と言います。

ホワイトカラーとブルーカラーという言葉が英語であることからも分かるように、
こういう色分け自体がもともと日本では馴染みのなかったものです。
ホワイトカラーは頭脳労働、ブルーカラーは肉体労働という色分けですが、
もともと職人を尊ぶ伝統を持つこの国では、
ブルーカラーの仕事を蔑視するような風潮はなかったはずですし、
両者の所得差も、アメリカなどに比べればずっと小さかった(今も小さい)のです。
つまり、この国においては、自分が頭脳労働を選ぶか、肉体労働を選ぶかは、
元来、その人の適正によって右の道を選ぶか左の道を選ぶかという話であって、
決して社会的立場が上か下かということではなかったはずなのです。

このように「職業に貴賤はない」ということを文字通り実現した国であったからこそ、
企業体はそこで働く人全員の叡智と工夫を結集することができ、
その結果、世界に類を見ない高品質の製品や行き届いたサービスを実現できたのでしょう。

今、この国のそういう強みに陰りが見えるのは、
文化的再生産によって学歴によって象徴される社会的な分断が生じ、
さらにはホワイトカラーとブルーカラーという外来思想でもって
両者の分断を規定するようになったがために、人々の意識が変容し、
「自分は頭が悪くてホワイトカラー(上)にはなれないから、
仕方なくブルーカラー(下)で我慢している」という下流意識と、
「自分は頭が良いからホワイトカラーになれたのであって、
ブルーカラーを犠牲にしてその地位の安泰を図るのは当然だ」という上流意識の
二色に塗り分けられてしまったことで、
社会全体としても運命共同体であるという一体感を喪失し、
成員の叡智と工夫を結集することができなくなったためでしょう。
双方の信頼関係が失われた結果、この国の経済は弱くなった。

ホワイトカラーの人間は自分達の利益しか考えず、
ブルーカラーの人間は言われたことしかやらない、
そんな職場では、よい仕事はできないと思います。

「学歴を手にすれば無条件に楽ができ、
手に出来ない人は虐げられることに甘んじなくてはならない」
という発想が多くの親御さんの頭から離れない限り、
この現状は今後も拡大再生産を続けるのだろうと思うと暗い気持ちになります。

今の状態のままでは、企業や社会に新しいものが生まれて来る活力がないのですから、
いくらホワイトカラーの人が自分達の利益を守ろうと躍起になったところで、
ますますこの国の経済全体が沈下していくことになって、
結局は、自分たちの利益の確保さえ儘ならなくなるでしょう。

こうした状況を打破するためには、
親が大卒か高卒かなどということに拘わらず、また「将来楽をするため」なんかではなくて、
純粋に学術的・文化的な興味関心を持って大学に進む人間が増えなくてはならないでしょう。

ちなみに、このブログ記事を書くきっかけになったウェブサイトを見ていて、
ふと「うちの高校部卒塾生の場合はどうなんだろう」と思って調べてみたのですが、
ほとんどの親御さんが高卒でした。
ちなみにパンフレットに載せている卒塾生の進路は以下の通り、

●Aさんの場合 中3入塾→北須磨→神戸大→日本生命
●Yさんの場合 中2入塾→須磨東→兵庫県立大→行政書士
●Sさんの場合 中2入塾→友が丘→兵庫県立大→同大大学院→公認会計士
●Yさんの場合 小6入塾→私立内部進学→茨城大→プリマハムに勤務
●Yさんの場合 小6入塾→長 田→神戸学院大→同大大学院→臨床心理士
●Iさんの場合 中2入塾→伊川谷北→神戸女子大
●Aさんの場合 小6入塾→長 田→ 東京理科大
●Mさんの場合 中2途中入塾→須磨東→関西外大→中学校教員
●Sさんの場合 小3入塾→伊川谷北→甲南大→同大学大学院→㈱カネカ
●Sさんの場合 小3入塾→神戸学院大附属→武庫川女子大→警察官
 Mさんの場合 小6入塾→神戸学院大附属→京都外大
△Tさんの場合 中2途中入塾→須磨学園→神戸大→大阪大学大学院
●Kさんの場合 中1途中入塾→ 高塚 → 摂南大
●Mさんの場合 中1入塾→北須磨→神戸外大
 Nさんの場合 中1入塾→須磨東→関西大
 Nさんの場合 中1途中入塾→須磨東→関西外大短期大学部
〇Sさんの場合 小4入塾→長 田→京都大
〇Iさんの場合 中1入塾→北須磨→山口大
●Fさんの場合 小4入塾→北須磨→北 大
 Nさんの場合 中2入塾→北須磨→明治大

●は親御さんが高卒の卒塾生、
◯は親御さんが大卒で、それを上回る大学に進学した卒塾生、
△は親御さんが大卒で同等の大学に進学した卒塾生です。
印がない人は我々が親御さんの学歴を存じ上げていない卒塾生です。

うちの塾生を見れば「親の学歴は遺伝しない」と断言できますね。
そして、この中に「将来楽をするため」に大学へ進学した者はいないということも。
上記の塾生のほとんどは半年~数年に一度くらいは新風館に顔を出してくれていて、
今でも我々と繋がっていますから間違いありません。

先日も摂南大に通うK君が来てくれましたが、
世界中を旅し、中でもロシアは5回も訪れたと言う彼は、
ロシア語の研究者になることを志して大学院へ進学するつもりのようです。
そのためには、自分の大学では残念ながらレベル的に無理だということから、
今は外大への編入試験を受けるために猛勉強中だそうです。
何も考えずに遊び暮らしている大学生とは一味も二味も違います。

彼のように、たとえ大学入試の時点では自分の望む結果が得られなくても、
何かに関心を持って学ぶことができる人間であれば、道を切り拓くことが可能です。
学歴の話に限っても、彼が編入試験に受かれば他の卒塾生と肩を並べることになります。
しかし、彼はそんなことは微塵も頭にありません。
ただ自分がやりたいことをするために必要だから手に入れようとしているだけです。

彼のように自らの興味関心に従って学んだ結果が高学歴に繋がったということであれば、
別にそれを他人に誇示したりしないでしょうし、
彼のような人ばかりなら、やれホワイトカラーだ、やれブルーカラーだなどと言って、
社会が分断されるなんてことも起きないでしょう。
世界を巡っていろいろな人と出会い、話をして来た彼にとっては、
「有名大学の学生であろうと何も考えなていない奴は馬鹿だし、
高卒であろうときちんとものを考えている立派な人はいる」
というのが当然の認識になっているようでした。
まさにその通りだと思います。

「親の自分は高学歴ではないけれども、子供には高学歴を」と望む方は、
上述の文化資本と学歴の相関関係を見る限り、大事なのは、
子供に「勉強して大学へ行け」と要求するのではなくて、
まずは、自分できちんとものを考えられる子供に育てること、
そして、親として子供の興味関心に応えられる教養を磨き、家庭の文化資本の充実を図ることなのでしょう。