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人間は変われる?変われない?
人間は変わることができるでしょうか?

教育に携わる人間がこの問いにノーと答えてしまったら、教育者でいる資格はないでしょう。
成長とは人間が良い方へ変わることにほかならないのですから。
もちろん我々は、人間の成長には無限の可能性があると信じて仕事をしています。

しかし近年では、教育を受ける当の子供たち自身が、
自分が変われるとは全く信じていないという、とても悲しい現実があります。
我々のところへ来た時点で、もうすでに、
自分の可能性に完全見切りをつけてしまっている子どもも少なくありません。
曰く「どうせ自分は頭が悪いから、勉強ができるようにはならない」
「自分にはこんなにたくさんのことを覚えられるわけない」と。

今や、我々の一番の仕事は、そういう子供たちを根気強く説得することになってしまいました。

「生まれつき頭が悪いんじゃなくて、使わんから良くならへんねん」

「身体を鍛えないと筋肉が発達しないのと同じや。生まれつきムキムキの人なんかおらんやろ?」

「自転車に生まれつき乗れる奴はおらん。勉強も同じことや」等々…。

 手を変え品を変え、何とか意識を変えようと日々頑張っています。

しかし、我々の言うことに耳を傾けようとせず、
自分の見立て(自分はできるようにならない)が正しいと信じ切っている子供たちは、
我々がどんなに一生懸命勉強を教えたところで、なかなかできるようにはなりません。
「できるはずがない」という先入観にとらわれている限り、人間は何も習得できないものなのです。

たとえば、自転車に乗ることを習得しようとするなら、
自分が乗れるようになると信じて、乗る練習をしなくてはならないし、
泳ぎを習得しようとするなら、まずは水に入らなくてはなりませんが、
自分の可能性に見切りをつけている子供たちというのは、
自分が自転車に乗れるようになるはずがない、泳げるようになるはずがないと信じ込んでいて、
自分からは決して自転車に乗ろうとはしないし、水に入ろうともしない状態なのです。

本人が、とりあえず「乗ってみよう」「泳いでみよう」という気になって、
自分の意志で自転車に乗る、自分の意志で水に入るようにならない限り、何も始まらない。
我々が日々の授業でどんなに頑張って教えたところで、表面をなでているようなもので、
知識がその子の中に根を下ろすことはありません。
すべては時間の経過とともに風化し、失われてゆくのです。

ですから、我々は辛抱強く説得を続けるのですが、
それでも本人がその気になるかどうかは、結局、本人次第です。
実際、何年経っても、何一つも変わらない子もいます。

そういう子は、何十回・何百回と練習させても、単語や漢字を覚えることができないし、
基本的な計算さえきちんと合うようにならないのです。
「自分にできるはずがない」という先入観は、そら恐ろしいほど強固なのです。

どうして多くの子供たちがこんな不毛な思い込みをするのでしょうか。

非常に残念なことですが、似たような思い込みをしている大人が多いからでしょう。
「子供は親の鏡」なのですから。

人間は変わることができるものか?という問いを立てる以前に、
そもそも、変わろう(成長しよう)と思っていない人、言い換えれば、
今の自分を絶対視する(完璧だと勘違いしている)大人が増えているのかもしれません。

もちろん、完璧な人間などこの世にはいませんから、常に変化(成長)の余地はあるものです。
これを否定する人は、「自分を神だ」と言っているに等しく、これ以上ないくらい傲慢な人です。
いい年をして逆ギレする人や、他人に迷惑をかけても恥じない人、
飲食店などで店員さんを見下すような横柄な態度をとる大人はみな、
間違いなくこのタイプに属する人だと思います。

こういう大人は、子供にも自分を神だと勘違いさせる可能性が高いでしょう。
そういう子供は、自分では何もできないのに、
誰かが代わりにやってくれるのを当然のことと思うようになります。
何事も「よきにはからえ」という態度で臨む。自分の無知無能を恥じる気持ちがない。
ですから、困ったことに(当然のことに?)、勉強ができない子供ほど偉そうにするものです。

逆に、自分を絶対視するような傲慢さを軽蔑し、
自分の無知無能を恥じる気持ちを持っている人であっても、
人間は変わることができるとは思っていない人、
あるいは、人間の変化(成長)に懐疑的な人というのは、
やはり、子供を自分の可能性に見切りをつけて成長を拒む人間にしてしまう可能性があります。

そういう人は、恥を知っているだけに、ある種の謙虚さを備えているでしょうし、
傲慢な人のように他人に迷惑をかけることはないかもしれません。
しかし、そういう人でも「自分は変われる(成長できる)」と思っていないとすれば、、
子供に与える影響は、さきほどの傲慢な人と似たようなものなのです。

なぜなら、そういう人が謙虚に見えるのは、本当の意味で謙虚だからではなく、
劣等コンプレックスのせいで自分に自信が持てないために、自分を主張できないだけであって、、
過剰に偉そうにしていないと自分が保てない人が抱えているコンプレックス=優越コンプレックスと
表裏のものだからです。
だから、外面はおとなしそうに見える人が、家庭内では暴君のようにふるまうということもある。

どちらも、コンプレックスを抱えていることに変わりはなく、実は後ろ向きな人です。
コンプレックスは、心を委縮させ、チャレンジ精神をくじきます。
どちらも新しいことに挑戦し、変化(成長)を求める前向きな気持ちにならない点では同じなのです。

人間は変わることができないと思っている人は、突き詰めれば、みな運命論者です。
人生の途中で変われないのであれば、すべては生まれつき決まっていることになります。
才能に恵まれた人間は成功し、そうでない人間はどうあがいても無駄だという結論に行きつく。
つまり、人間は変われないと考えるのは、「すべては運命だ」と言っているに等しい。

運命論者は、努力を否定します。
すべては運命なのですから、努力は無駄なものということにならざるを得ません。
そして、自己の責任を放棄することにもなります。
運命のせいにすれば、人生が上手くいかないことも自分のせいではないと思うことができます。
どうしても「悪いのは自分じゃない」=「私の責任じゃない」ということになる。

逆ギレをするような人も、自分に自信がないのに何の努力もしない人も、
自分のせいではないと思っている点ではまったく同じなのです。
違うのは表面的な態度、他人に責任を転嫁して恥じない傲慢さがあるかどうかだけでしょう。
いずれも運命の奴隷であることに変わりはありません。

社会全体として考えれば、この運命の奴隷である両者、つまり、
優越コンプレックスに囚われた者と劣等コンプレックスに囚われた者の組み合わせは、
悲劇以外のなにものでもないでしょう。前者の暴言に後者は沈黙するしかないのですから。
誰も新しいことにチャレンジせず、誰も責任を引き受ける気がない社会。

社会の大半の人間が「上手くいかないのは、自分のせいではない」という前提に立ってしまうと、
「このままじゃいけないな」と思って努力しようという人がいなくなってしまうのです。。
それが「普通」になってしまった社会では、
自分にできないことがあっても、誰も「このままじゃまずい」とは思わないし、
自分にわからないことがあっても、「誰か知っている人に聞けばいい」と考える。
みな自分が何かをできるようになろうとはしないし、知ろうともしなくなるわけです。
これでは、新しいものが生まれてくるはずがないどころか、
今ある知識ですら、ちゃんと知っている人がいなくなってしまう可能性があるのです。

今の子供たち、若者たちを見ていると、その可能性が非常に高いと言わざるを得ません。
彼らには「できない(知らない)方が悪い」「できる(知っている)方が偉い」という常識が
ありません。
彼らは、自分が知らないこと、できないことに出くわすと、
「教えてもらってない」「習ってない」というセリフを、
まるで水戸黄門の印籠のように振りかざします。このときの彼らには、
自分が知らないということ、できないということへの恥ずかしさは微塵も感じられません。
「知らない(できない)のは自分の責任ではない」と信じているのですから当然でしょう。

しかし、この態度が間違っていることは、ちょっと考えればわかります。
たとえば、科学全盛のこの時代に、地球がまるいことを
「習ってないから、知らない」と言うのは恥ずかしくないことでしょうか。

それに、もし「教えてもらってない」あるいは「習っていない」ことを根拠に、
自分が「知らないこと」「できないこと」を正当化できるのであれば、逆に、
「教えてもらったこと」「習ったこと」は、必ずできなくてはならないことになります。
ですから、「教えてもらったこと」「習ったこと」もきちんとできない状態では、
「教えてもらってない」「習ってない」と言ったところで、本来言い訳にすらならないはずです。

さらには、もし「教えてもらったこと」「習ったこと」なら必ずできると言う人であっても、
「教えてもらってない」「習ってない」ことは決して出来ないというのであれば、
「私はプログラムされた機械だ」と言っているに等しいことになります。
「自力では何も学ぶことができません」と言っているのと同じですから。
これはもはや自分が人間であることを否認しているようなものです。

残念なことに、近頃では、
大人でもこの種の言い訳にもならない言い訳をする人が少なくありません。
もしそれが「普通だ」と強弁するなら、そのうち社会に人間はいらなくなるでしょう。
「教えてもらったこと」「習ったこと」しかしなくていいのなら、
仕事を全部機械に任せればいいんですから。その方がきっと失敗も少ないでしょうし。
実際、そういう「普通の人たち」は、あと十年もすれば仕事を失うことになるかもしれません。
そのころにはAIが社会に普及していると言われていますから。

しかし、機械(AI)に責任は問えません。責任を引き受けられるのは人間だけです。
仕事や勉強に限らず、何事も「自らの責任において行う」のが近代自由主義社会の大原則です。
これを理解できない人間には、成長という変化が起きることもあり得ませんし、
何より、自らの権利(自由)を主張する資格もないはずです。

運命論に走る人、自分で変わる努力をしていない人には、
このことを、今一度じっくり考えてみて欲しいと痛切に思います。
それこそ「知らない」では済まされない話だと私は思うのですが。



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