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道理と方法
 中国の故事に、こんな話がある。

 斉の国に南北に走る公道があったのだが、その道は雨が降るとすぐにぬかるんで5~600mほどが水浸しになるため、人々は道の西側の農地の中を通るようになった。田畑を踏み荒らされたその農地の夫婦は、通り道になってしまった土地についたてのような土塀を5、6歩ごとに合わせて数十個ほども建て、そこを通れないようにした。ところが、通行人はその土塀を迂回してさらに西側の農地を通るようになったため、結局は踏み荒らされる場所がさらに拡がっただけであった。夫婦は泣いて通行人に懇願するしかなかったが、人通りが多過ぎてどうにもならなかった。それを見た人が「土塀を建てた土地はすでに農地として使えないのだから、土塀を壊してしまって、そこを通らせた方が被害が少なくてすむではないか」と言ったが、筆者は「それよりも、その土塀を壊してその土を使って国道を埋め、雨が降ってもぬかるまないようにすればいい」と提案する。農家は筆者の言葉に従い、その後は農地を踏み荒らされることがなくなった、という。

 この故事は、問題は根本的に解決しなくてはならないということを教えるものですが、まさに今の日本人はこの教えについてよく考えてみるべきだと思います。先の故事では、どうして筆者以外の人はだれも根本的な解決を思いつかなかったのでしょうか。大半の人は、今も昔も、目の前の問題にどう対処するかという方法(対処法)しか頭にないからだと思います。何事においても重要なのは、「どうやって」ではなく、「なぜか」なのです。問題が起こる理由を考え、原因を解き明かさなければ、その問題を解決することはできません。たとえば、病気の原因が分からないのに根本的な治癒は望めません。正しい治療法を見つけるには、病気になった理由を考えで理由を知らなくてはならない。有効な治療法は、病気の原因が判明しないと見つかるはずがないのです。物事の理由を知らずに方法だけを論じたところで何の意味もないのです。

 ところが、勉強でも仕事でもちょっと行き詰まると、できない人ほど「なぜ自分ができないか」という理由をよく考えてみもせずに、すぐ「どうすればいいんですか」と言います。しかし、そもそも方法が正しいかどうかは、問題が起こる理由を考え、原因を明確にして、それを解決するためにはどうすればよいかを理に沿って考えるしか判断のしようがないものです。つまり、理由を考えない人間、原因がわかっていない人間には、理に適った(合理的な)方法をとれるはずがないのです。その人には一つの理もないわけですから。理由も分からずに手段ばかりに拘る人間というのは、本来なら目的を達成するためにあるはずの手段・方法を目的化してしまっている、まさに本末転倒の状態にあります。だから当然、道(way)に迷う。手段や方法(way)というのは、本来目的を達成するための道筋(way)に過ぎないものですから、理に適った方法は一つとは限らないものです。たとえば、山の登頂を目指すという目的を達成するためのルートはいくつもある。道中が楽しいルートがいいのか、険しくとも最短のルートを選ぶのか、遠回りでも安全なルートを選ぶのかはその人が山に登る理由と状況によるはずです。この理由を無視してどのルートが正しいかを問うたところで何の意味もありません。自分が勉強する(あるいは勉強が出来ない)理由も考えずに、できるようになるはずがないんです。

 どうして皆こんな単純なことに気づかないのか、私はずっと不思議だったのですが、私なりに考え抜いて見出した原因を、つい先日の授業で、学力が伸び悩んでいる塾生たちにぶつけてみることにしました。「もし自分ができない根本的な理由を問うと、自分自身が間違っていたということを認めなくてはならなくなるからなんじゃないか」と。そして、「手段・方法が間違っていただけだということにすれば、自分は何も悪くなかったということにしておけるからではないか」と。「簡単に言えば、自分が間違っていたことを認めたくない、自分は正しいと信じていたいからではないか」と。彼らははっとした様子で、その通りだと認めました。子供に限らず、きっと多くの人が同じ過ちを犯しているのではないかと思います。どうしてそんなことになってしまうのでしょう。

 そもそも、勉強(学問)というのは物事の道理を理解するためのものです。道と理というのは、いずれもこの宇宙の摂理を意味する言葉です(この場合の道はwayではない)。宇宙の摂理は、自分がこの世界に生まれてくる以前から存在していて、自分が死んだ後もずっと変わらないものであって、それが分かる=理解する(理を解する)のは、それに適応して生きてゆくほかない我々の側の問題、それを理解する責任は100%人間の側にあります。ひとりひとりの人間の目線で言えば、それを理解できるかどうかはその人個人の問題です。これは、理を教える側の人間(教師)であろうと、学ぶ側の人間(生徒)であろうと、同じです。人はこの摂理の下でしか生きられないからです。宇宙の摂理=物事の道理を理解し、この世界に上手く適応すること、これ以外に学ぶ理由はないと言ってもいいくらいです。ですから、この世の理(ことわり)を解さないのに優秀な人間などいるはずがありません。

 逆に、それを解する気がない人間、そういう理よりも自分の主観を優先する人間は一般に馬鹿とか頭が悪いと言われるのです。それもあくまでその人自身の問題であって、生まれつきの頭の良い悪いとは無関係です。たとえば、「地球が丸いなんて信じない。引力なんて自分は感じないから、地球が丸いならみんな地球から落ちてしまうはずだ」と言い張る人間がいれば、それはその人が間違っているのであって、その人が理解しようとしまいと、地球が球体で我々はその引力によって吸い寄せられているという理は微塵もゆるがない。勉強ができないとすれば、それは、宇宙の摂理=物事の道理を理解しようとはしないところ、あるいは、理解できるようにならない自分の方に問題があると認めないことに原因があるのです。これを認めない限り、その人は、決して勉強(学問)ができるようにならないと思います。

 にもかかわらず、多くの人(あえて子供とは言いません)が、この摂理=道理を無視するような考え方をしようとします。たとえば、勉強(学問)を出世のための手段・方法と考え、勉強の目的をテストで高得点を取ることだと誤認しているのがまさにそれです。本来、テストというのは、その人がどのくらい理を解しているのかということを確認するためのもので、高得点を取ること自体が目的ではありません。目的はあくまでも理を解することであり、理解が高ければ当然高得点が取れるものです。実際そのように作成されています。テストは理解の高さを測るための手段の一つに過ぎず、高得点は理解の高さを表す指標の一つに過ぎない。出世のため成績のために勉強するというのは、先に述べた手段を目的化するという、本末転倒の状態、道理に適っていない不合理な状態であるわけです。

 弊著にも書いたのですが、もし理解を無視して勉強をただの手段だと考えてよいとすれば、たとえば、トナカイに乗ったサンタが空を飛んでくるのを信じている状態のままで物理のテストで高得点が取れる人がいてよいことになります。その人自身は何も変えずに手段だけはどうとでも変えられることになるわけですから。しかし、実際にそんな人がいたら気持ち悪いです。実際、我々は勉強を出世のためのあるいは成績のための手段だと考えている人で優秀な人間というのを見たことがありません。にもかかわらず、今の世の中、自分を棚に上げて、小手先の方法を変えるだけで何でも対処できると思い込んでいる人はかなりの数にのぼるでしょう。

 なぜ多くの人がこんな過ちを犯すのかというと、知らず知らずのうちに、宇宙の理を超越した視点、つまり、神の視点から物事を見ようとしてしまうからだと思います。「どうすればいいんですか」という手段・方法だけを問題にする態度をとる人は、自分を理の外に置いているのではないかと思います。「どうすればいいんですか」という言葉の裏には「自分は間違っていない。間違っているのはやり方だ」という前提があって、上手くいかないことを自分自身に問題があるとは思ってはいない証拠です。「自分自身が理に適っていない状態だったからこそ、その自分がとった方法が誤っていたのだ」という視点が完全に欠落しています。つまり、「悪いのはやり方であって、自分は何も悪くない」ことになっている。この自分自身が無謬であるという前提は、神のみに許されることでしょう。人間ごときがこのように考えるのは、あまりにも傲岸不遜です。少なくとも、日本人の伝統的な美徳である謙虚さからは程遠い態度だと思います。

 そういう態度をとる人間はどう見ても道理に適う生き方ができるはずがありませんから、大半は現実から手痛いしっぺ返しを食うことになるでしょう。受験の失敗であったり、仕事上の失敗であったり、挫折であったり、離婚であったり、家庭崩壊であったり、事象・現象はそれこそ様々でしょうが、自分を理の外に置いて物事を見ようとしている限り、しっぺ返しは続くと思います。興味深いのは、自分を神の立ち位置において物事を眺めたがる人ほど、他人のそういう態度に対して不寛容だということです。だから、世の中というのは諍いに事欠かないのかもしれません。互いが自らを神の立ち位置において言いたいことばかり主張すれば、諍いが起きない方が不思議ですから。ただ、そうした諍いも仲裁するのは道理(公には法理)だことを忘れてはいけないと思います。

 自分を宇宙の理を超越した立ち位置に置いて物事を眺めたがるという性向は、個人的にはある種の幼児性の表れであると思っています。アニメのヒーローを見たら、自分もそれになれそうな気がするという類の、理による裏付けの全くない感覚的なものです。最近の子供たちの困ったところは、そういう性向をこちらが認めてやらないと、たちまち自信を喪失して、なげやりになったり、逃げ出したりするというところです。もちろんこれは、彼らの自信には合理的な根拠が何もないからです。そういう子供は幼児性から抜け出そうとせず、成長すること自体を拒みます。いじめが原因でない不適応(不登校や引きこもり)の多くはここに原因があるのではないかと私は思っています。

 こういう子供たちの困った性向を助長しているのが、大人の「褒めて伸ばす」という教育方針です。これは、子供たちの側からすると「自分は褒められて伸びるタイプ」という認識になります。しかし、こういう教育方針を掲げる大人や、褒められて伸びるタイプを自認する子供たちの中で、「褒める」ことと「煽てる」ことの違いを理解している人が一体どのくらいいるのでしょう。私には大半の人が両者の区別をしていない(おそらく考えたこともない)ように思えてなりません。言うまでもないことですが、「煽てる」というのは人として褒められた行為ではありません。ましてや、自分を「褒めてくれ=煽ててくれ」などと思っているとすれば、その人は自分を王様か何かと勘違いしているということになります。褒められて伸びるタイプを自認する人の多くが、本人が考えているほどの能力を持っていない場合が多いのは、おそらくこのためでしょう。実際、これまで私は「褒められて伸びるタイプ」を自認する人で、優秀な人(大人も子供も)には会ったことがありません。

 勘違いしないで頂きたいのは、何も私は「褒めない」と言っているのではありません。褒めるに値することをすれば喜んで褒めます。しかし、それに値しないことをわざわざ褒めてやろうとする(理に適っていない)のは、煽てることにほかなりません。人をすぐ煽てる人間は尊敬されないものです。それは相手に「媚びへつらう」ことになるからです。教師というのは生徒に尊敬される存在でなくてはいけませんから、本来それを一番やっちゃいけない職業です。生徒に媚びる教師など尊敬されるはずがありませんから。かと言って、もちろんいつもムスッとしていて機嫌が悪そうというのもいけない。穏やかで朗らかで、何より生徒が接していて心の余裕が感じられる存在でなくてはならないでしょう(とても難しいのですが)。もとより生徒が間違った(道理に合わない)ことをしたときは厳しくあらねばいけません。そのために、何よりもまず、道理に明るくなくてはならない。道理を教えるのが教師の職務なのですから。

 弊著にも書いたことですが、「怒(おこ)る」のと「叱る」のは全く違います。これは「褒める」と「煽てる」とが全く違うのと同じことです。「褒める」と「煽てる」の区別がつかない人は、やはり、「怒る」と「叱る」の区別がつかないだろうと思います。教師に限らず、大人は、子供を「叱る」べきであって「怒る」べきではないのです。そもそも怒りはネガティブな感情です。「怒る」という行為は相手に自分のネガティブな感情をぶつけることであって、相手の間違いを正すためのポジティブな行為である「叱る」とは本質的に異なるのです。この差異をきちんと分かっている人間でないと子供を「叱る」ことはできません。叱られた子供は反省しますが、怒られた子供は敵意や憎悪を抱くだけです。それを知らずに怒ってばかりいる大人の何と多いことか。「怒る」のは「煽てる」のと対極にあって、同じくらい道理からは遠い、人として道を誤った行為なのです。ですから、「煽てる」のも「怒る」のも、子供を健全な大人にはしません。煽てられて育った子供は道理をわきまえようという気になりません。怒られてばかりで育った子供は、こちらが叱っていても、怒られたと受け取って敵意や憎悪を向けて来るようになります。両者とも他人と健全な信頼関係を築く能力がないという点では同じです。「叱る」という行為は、子供の行為が道理に照らして間違っている場合になされるべきものですから、叱る側の教師や大人が道理から外れていては話になりません。

 今は、道理に照らして自らの行為を顧みる大人が果たして今この国にどのくらいいるのかがとても心配です。本来、人間というのは道理にはずれた状態で生きて行けるものではありませんから、大人が率先して道理に適う生き方をしなくてはなりません。アメリカのように道理から外れてしまった人間を収容施設(刑務所)が足りなくなるような社会になってもよいのなら気にしなくてよいことかもしれませんが。

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