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弱さの構造
 心理学的には、人はみな自分が平均よりやや上の人間だと思っていると言う。おそらくそうしないと自身を価値ある存在だと信じることができず、心の平安を保てなくなるからだろう。しかし、もしそうやって得た心の平安と引き換えに、成長の契機を放棄することになるかもしれないとしたら、多くの人はどう感じるのだろうか。

 もちろん、自分が平均よりやや上の人間だというのが事実なら問題はない。しかし、現実には全ての人間が平均以上などということは数学的にあり得ない。したがって、半数以上の人間にとって、それは錯誤に他ならないということになる。もちろん、人間の能力は、自然界に暮らす動物とは違い、無限と言って差し支えないくらい多様な評価基準があるから、全ての評価軸で平均以下という人間が半数を超えるとは言えない。しかし、自分を平均よりやや上の人間だと思うことによって心の平安を得ているような人間が、様々な評価軸でもって厳正に自分の能力を推し測り、少なくともこの能力については平均以上と考えていいだろう、というような客観的な評価を下しているとは、到底考えられない。おそらく漠然とした感覚評価に過ぎないはずだ。

 だとすれば、そうやって得た心の平安は、ある種の幻想、まやかしだということになる。たしかに、幻想にすがらないとやってられないというのも、人生の一面の真理ではあるだろう。現実の人生は生まれた瞬間から不公平なものなのだから。しかし、それで果たして人は本当に幸せになれるものだろうか。私にはそうは思えない。理由は単純。幻想に逃げ込んだままの自分をそっとしておいてくれるほど、現実は甘くないものだからだ。そう、現実というのは決して人に優しいものではない。

 一生を幻想の中に逃げ込んで逃げ切れる人などそうそういるものではないだろう。実際には、現実から自分の本当の姿を突き付けられ、痛い思いをする人間が圧倒的多数を占めるだろう。そして、その痛みは、逃げ込んでいた期間の長かった人ほど耐え難いものになる。だから私は不思議なのだ。どうして人は、自分の真の姿と向き合い、少しでも改善しようと試みないのか、と。

 これまで私が観察したところによると、大半の人間は、少しでも痛みを伴うような努力を厭う。たとえいつか耐え難いほどの痛みが襲って来ることを予感していても、今この瞬間に耐え忍ぶべき僅かな痛みから逃れようとする。とりわけ精神的な痛みから。多くの人は精神的な痛みに対してあまりにも弱い。

 身体を動かすのを厭わない人の中には、そういう精神的な痛みを肉体的な痛みにすり替えようとする人も珍しくない(個人的には、これが一流のアスリートになり損ねる最大の原因だと考えているのだが)。彼らは自分の本当の姿を直視する精神的な痛みから逃れるために、自分に肉体的苦痛を与えるという、代償行為に走る。たしかに、へとへとになるまで頑張ったという、(私に言わせれば、偽りの)充実感は得られるだろうし、そういう行為ができることを自分の精神的な強さだと錯覚することもできるかもしれない(おそらく、これが日本のスポーツ界に長らく蔓延して来た誤った精神論の出所だと思う)。しかし、実際には、精神的に強くなるどころか、ただ肉体を消耗させ、アスリートとしての寿命を縮める結果になる。そして何よりも、そういう見当違いの頑張りはせっかくの成長の契機を逸することになる。

 本当の精神的な強さとは、勝敗や生死のかかったギリギリの局面において自分の力を信じ切れることだと私は思う。言うまでもなく、これは常日頃から自分の本当の姿と真摯に向き合い、地道な改善を続けて来た人間にしか手に入らない、本物の自信だ。そういう人は自分にできることを(当然できないことも)よく知っているから、ギリギリの局面でも普段通りのことができる。もとよりそのためには、不断の努力を要する。ただしそれは、ちょっとした心がけで誰にでもやれる小さな努力の積み重ねでしかない。

 まずは、現実が自分に求めてくるもの(それが他の人からのものであれ、仕事などの技術的な事柄であれ)のうち、自分はそれに応えたいと心から望んでいるが、現段階ではまだ難しいと感じていることを、常に意識し続けることだ。そのことを常に心に留めておき、暇があればそれについて何故自分にはできないのかを考えてみるだけでいい。答えが出なくても一向に構わない。そもそも、そんなに簡単に答えが見つかるものなら、とうの昔にできるようになっているはずなのだから。なかなか答えが見つからなくて当たり前。めげる必要はない。重要なのは、答えにたどり着くまでの過程だからだ。それこそが常日頃から本当の自分と向き合うということなのだ。

 そうやって、現実の要求に応えられない、不甲斐ない自分を直視することに慣れなくてはならない。何も自分を責めろと言うのではない。ここが肝心なところだ。神ではない以上、我々にはできないことがあって当たり前だし、できないことの方が多いに決まっている。自分を責めてできるようになるのならいくらでも責めればいいが、そんなことをすれば、どんどん自信を喪失するだけで、かえって精神的には弱くなるだろう。だいたい、自分に限らず人を責めるという行為は、できるはずのことができなかったときにやるべきこと(社会的に問われる責任も同じだ)であって、端っから自分に(相手に)できないと分かっていることを責めたって何の意味もない。

 この意味で、よく自分を責める人とというのは、自分を高く見積もり過ぎている可能性が高い。そしてそれは、本当の自分と向き合えていないという証拠でもある。自分にはやれたはずだと思い込んでいることが、その人の本当の実力とは完全に乖離してしまっているのだろう。自分を責める暇とエネルギーがあったら、さっさと今の自分にはできなかったという現実を受け入れて、今後同様のことが起きた時には対処できる自分でいられるようにその時間とエネルギーを傾注すべきだ。なぜ今の自分はそれができる人間ではないのかという理由を見つけ出さなくてはならない。そして、その理由は、感情論抜きで合理的・客観的に考えなくてはならない。そのためには、冷徹な自己観察眼が必要だ。他人を見るように自分を観察しなくてはならない。

 大半の人は全くそういう努力をしないでおいて、ただ失敗した自分を責める(ときに罰する)ことよって、責任を取った気になっているだけではないかと私は思っている。だから、同じ過ちを何度も繰り返すのだろう。しかし、その度に、いくら泣こうが、いくら喚こうが、たとえ自分の腕や足を切り落として自らを罰しようが、その後何の変化も改善も見られないのであれば、それは単なる自己欺瞞にすぎない。そういう人間は、本当の自分がいる地平に降り立つことは決してなく、唯我独尊、自分ひとりを高い所に置いて、そちらを本当の自分だと思い込もうとしているだけなのだ。

 現実によって自分の本当の姿を突き付けられたときこそ、実は成長のチャンスだ。成長のためには、本当の自分が今立っている地平に降りなければならない。そこから見える景色を直視しなければならない。そうして初めて自分に何が足りないのかが分かる。自分に足りないものが分かったら、なぜ自分がそれを手にしていないのかを理解することだ。必ず理由はある。その理由は人それぞれだろうが、総じて言えることは、自分を過大に評価する心の動きというのは、この宇宙、この世界の理(ことわり)に反している可能性が高いということだ。

 どんなに自分が凄いと思い込んだところで、我々は、この宇宙の、この世界の理の外で生きることはできない。地球の自転を止めることはできないし、1+1を3にすることもできない。だから、我々が明日死んだって、この宇宙は、この世界は、何も変わらない。それが現実なのだ。だから我々の方がこの宇宙にこの世界に適応して生きてかねばならず、そのためにこの宇宙この世界の理を学ぶ。自分自身のことを含め、この宇宙この世界で自分の意に沿わないようなことが起きても、間違っているのは現実を見誤った自分の方なのだ。そして、それを受け入れることができる人間だけが理に近づくこと、つまり、成長することができる。成長とは(何かの分野において)「理」を究めようと努力する、その過程に他ならない。それを日本人は伝統的に「道」と教えて来た。

 しかし、ここで多くの人間は致命的な間違いを犯しがちだ。それは、道と理つまり道理を方法と混同することだ。平たく言えば、問うべきは「なぜか(道理)」なのに、それを「どうすれば(方法)」とすり替えてしまう。本来、道理に適っていれば、方法は複数(大抵のことについては無限に)あるものだ。もとより間違った方法も無数にある。それなのに、方法を絶対視して、方法さえ正しければ正しい状態(理に適った状態)になると考えているのだから、本末転倒もいいところだ。方法が正しいかどうかはその方法が理に適っているものかどうかということでしか判断できないはずであり、その逆はない。道理を求めずして方法を問うことの愚かしさ、こんな自明のことに多くの人間は気づかない。

 実際、無能な人間ほど、少し困るとすぐに「どうすればいいんですか」と言う。本当なら「道理に照らして考えろ」と言えばそれでお終いなのだが、そういう人間は端から理を求める(究理)つもりなどないために発言をするのだから始末が悪い。当然、自分のそういう発言の裏にどんな自分が存在しているのかということにも気づかない。理を解する努力をせずに方法に頼ろうとする心の動きの裏には「方法ならば大した努力もせずに小手先だけですぐに変えられるもの」という浅はかな考えがあり、そして、その考えの奥には、「たとえ道理に適っていなくとも自分の生き方を変える気はない」という驕りがある。「自分は(道理に適っていなくとも)ちっとも悪くない」と。これは、「自分だけはこの宇宙この世界の理外の存在である」と宣言するに等しい。この驕慢で傲慢で傲岸な心が透けて見えるがゆえに、道理を究めようと日々努力を重ねている人間からすれば、こういう態度をとる人間に対して無性に腹が立つ。「そこをちょいと変えれば上手くいく」なんて単純な話ではないのだから。 

 我々人間が生命体である以上、この宇宙のこの世界の理に従って生きるほかない。我々人間は、愛する人一人幸せにすることすらままならない、愛する人みんなを守る力なんてもとより持ち合わせてはいない、実に無力で、塵にも等しい存在なのだ。しかも、この世界ではどんなに努力して理に近づいたところで、どんなに理知的な人間になったところで、報われるとは限らないし、報われないことの方が多いものだ。それがこの世界の現実だ。この厳しい現実を認め、受け入れ、自らの本当の姿を虚心坦懐に見つめるならば、この宇宙この世界の深遠な理を前にして「ふうん、そうなんだ。そういものかぁ」などと、これまた、あたかも自らがその理とは無関係の超越的存在であるかのような態度をとれるはずがない。「神ではあるまいし、塵芥ごときが何と傲岸不遜な」と言わなくてはなるまい。

 しかも、究理と無縁な人間ほど、理不尽なことに対して過剰なほど拒絶反応を示すから不思議だ。正直「よくもまあそんなことが言えたものだ」と思う。常日頃、自分を理を超越した存在であるかのような高みに置いておきながら、理に適っていない要求(=理不尽な要求)は断固拒否するというのだから矛盾も甚だしいのだが、もちろん、それに気づく由もない。理に適っているか理不尽かを判断する基準を実は自分が有していないということに思い至らない限りは。「どうすればいいか」が分かれば正しい道を歩めると思い込んでいる人間、つまり、道理に適った生き方をしていない人間には、文字通り「無理」なことなのだろう。

 また、逆説的だが手段に頼る人間ほど「結果が全て」と考えたがる傾向があるようだ。結果というのは、確かに自分が理に適う正しい道を歩いているかどうかを測る一つの尺度ではある。しかし、その結果は最終目標ではないはずだ。あくまでも、自分が正しい道を歩んでいるかどうかを知るチェックポイントである。それを「全て」と言ってのけるのは、これまたある種の傲慢というものだ。というのも、その発言の裏には「結果は全て手段によってコントロールできるもの」という錯誤があり、本来結果は誰にも予想できないものだという現実を無視しているからだ。だから、「結果が全て」という発想は、手段を目的化するという倒錯を生みやすい。

 たとえば、大学に進学すること自体を目的にしたり、テストで高得点を取ることを目的に勉強するのは、まさにそれだ。確かに受験の合否や試験のスコアは一つの結果である。しかし、それは目的ではないし、ましてや最終目標であるはずもない。強い格闘家を目指す者が「結果を全て」と考えるなら、負けは許されないことになる。これでは負けを糧に成長するという道は戦う前から絶たれてしまう。結果としては負けでも構わないという勝利以外の何かを得るための戦いはできないことになってしまう。この意味では、全ては目の前の結果だと考えるのは自らの道を狭める見方でしかない。結果は、最終目標が何であれ、自分が理に適った道を歩いているかどうかを確かめるチェックポイントとして活用すべき貴重なデータではあっても、目的ではない。そこを勘違いするから、近視眼的なものの見方しかできなくなるし、方向性のない場当たり的な方策を採ることになるのだろう。

 結果に直結するような方法があるという思い込みも傲慢の極みだ。実際、もし理に適った道をずっと外れることなく歩める人間がいるとすれば常に正しい手段をとることができるのかもしれないが、それはどう考えても人間業ではない。しかも、この宇宙はこの世界は偶然によって成立しているという理(不確定性原理)を忘れている。我々人間は、というよりこの宇宙に存在するもの全ては偶然から自由にはなれないのだから、結果を精査する際には、それも十分に加味しなくてはならない。どこまで行っても運はあるのだから。にもかかわらず、「結果が全て」と言い切るのは、やはり神の視点に立つ言辞と言わねばなるまい。

 真に重要なのは結果そのものではない。その結果にその人が如何なる意味を付与するかである。結果は、それに至った過程と手段を検証するデータとして有用であるに過ぎない。全ては、その結果にどのような意味づけをするかによって変わってくるからだ。そう、人間にとっては、「結果が全て」なのではない。「意味が全て」なのである。


 全てが不確定な宇宙というこの世界に暮らす我々人間の存在は、文字通りの塵芥に過ぎない。我々はそういう地平に立ち、自らの生を送っている。しかしそれは、ただ一点において他の生物とは決定的に異なる生でもある。それは、我々が「自らの生の意味を問う」存在だということだ。おそらくは言葉を話すという能力の獲得によって生じたであろう、このある意味非常に厄介な性質は、ときにある種の病のように我々を悩ませもする。しかし、同時にそれは我々の生を輝かせるものでもある。ある人が幸せであるか否かは、ただ一点、その人が自らの生に何らかの意味を見出せるか否かにかかっていると言っていい。

 少なくとも、もし我々の生がまったくの無意味であるとすれば、今や七十億に膨れ上がった肉塊が地球という狭い惑星の上で、ただ命を繋ぐためだけに食物を求めて蠢いているだけというのが現実ということになるのだろう。それではゾンビと何も変わりはないことになるが、実際のところ、それが現実なのかもしれない。その人がどんな世界に生きるのかは視点の問題だ。

 人間=ゾンビ世界観に納得し、それを受け入れるのであれば、その人は自らをゾンビと規定し、ゾンビとしての生(?)を選んだことになる。それが人類を幸せにするとは私にはとても思えないが、個人の選択としてはそれも確実に在ると言っていいだろう。もちろん、私としては人類全員がそういう価値観に染まった世界を想像したいとは思わないし、そういう世界観を持つ人を羨ましいとも思わないけれども。そういう人にとっては人生に意味を求めること自体がナンセンスだということになるだろう。刹那的な衝動と快楽が全てになるのかもしれない。現実にそういう人は少なからずいる。

 しかし、我々はここであることに気がつかなくてはならない。それは、もし人の生が無意味だとしたらという仮定に基づいて成り立っているこの人間=ゾンビ世界観も、実は、現実に対する一つの意味づけであるという事実である。人が何かを無意味だと規定するためには、暗に意味があることが存在するということを前提にしなくてはならないのである。つまり、無意味とは意味を前提とする概念なのだ。

 こう考えれば、我々が人である限り、意味から完全に解放されることはないということが納得できるはずだ。したがって、たとえ人生は無意味だと規定し、ただ自らの命を繋ぐことだけに腐心している人間であっても、それはあくまでも、その人が自らの生に対してそういう意味づけをした結果に過ぎないのである。我々が手にしている自由は、人である限り、どうあがいても、自らの生に見出す意味の選択権に留まるものなのであって、意味づけそのものを放棄する術は持ち合わせていないのである。これは人である限り受け入れるほかない事実、いや、人間の真理である。

 だとすれば、自らの生に対しては、人間=ゾンビ世界観に基づくネガティブなものでなく、ポジティブな意味を見出すことができる人間の方が幸せだと言えるだろう。ポジティブなことに好感を持つのは人間の本質に根差したものだろう。先の意味と無意味の話で言えば、人は無意味(ネガティブ)なことよりも意味のある(ポジティブ)ことを好む。このことは、人間を人間たらしめている言語そのものの構造にも見られる。およそ人間の言語という言語は、肯定形(存在する)をもとにして否定形(存在しない)を作るものであり、その逆の形式を持つ言語は存在しない。おそらくこれは、我々が生命体として、宇宙あるいは世界が、今目前に存在しているということを前提とし、それに適応するべく進化した結果なのだろう。実際、人間の心はネガティブ(否定的)な言葉や行動よりも、ポジティブ(肯定的)な言葉や行動に対して好感を持つようにできていることが証明されている。演説が盛んな欧米では、軽いスピーチであっても否定的な表現を用いないというのは、もはや常識である。ポジティブなものを求めるのは人間の本性なのだ(これを孟子風に解釈すれば性善説ということになるのかもしれない)

 人間の本性がポジティブなものを求めるからこそ、いつの時代でもお世辞や煽て(煽動)が効果を発揮するのだろう。ただし、お世辞を真に受けてはいけないというのも古くからの人生訓が教えるところであるし、昔から人を煽てるのは決して褒められた行動ではない。ましてや、自らに対してお世辞を言うなんてことになれば少々頭がおかしい奴と思われても仕方あるまい。そう、最初に述べた何の根拠もなく単なる感覚評価で自分を平均よりやや上の人間だと見なすメンタリティ(精神の有様)は、まさに自らにお世辞を言っているのと変わりはないのである。間違っても、それを自らの生にポジティブな意味を見出している状態だと思わないようにしなくてはならない。

 残念なことに、世の中には自らを煽て、根拠のない自信全開で生きる勘違い人間が、文字通り履いて捨てるほどいる。しかし、そういう仮面は、そいつが予想もしなかった状況や全く経験したことのない環境に置かれるといとも簡単に剥がれるものなのだが、そういう人間を強い人間と勘違いしてすり寄っていく弱い人間もまた履いて捨てるほどいる。両者を引きつけ合い、結びつけるのは、誤った自己認識に基づく事実誤認である。両者ともに、自分の本当の姿を知らないからこそ、片や自信過剰、片や自己不審(あるいは優柔不断)に陥る。一応断っておくが、後者が自分を平均より下だと考えている謙虚な人だと考えるのは間違いだ。本当に謙虚な人というのは自信過剰な(たいていは傲岸不遜な)人間を軽蔑することはあっても、憧れるなどということはあり得ないからだ。どちらも弱い人間だからこそ、過剰に強がったり、自虐的になったりしないと自分を保てないだけなのだ。その証拠に、一見強そうな人に尻尾を振って近づく人ほど、自分より下だとみなした相手に対しては実に冷酷なものだ。そういう人は、謙虚なのではなく、ただ卑屈なだけなのだ。

 いずれにせよ、自分の本当の姿を知らない人間というのは、有事(ここ一番)に実に弱い。常日頃から自分の本当の姿と向き合っていない人は、自分の弱さを知る由もないから、経験したことのない状況に置かれると途端にその弱さを露呈する。この宇宙で人間という存在が立つ地平に降り、そこに立って自分と世界を眺め、自分の弱さを直視した人間は、自らの弱さを知るがゆえに強くあることもできるようになる。徹頭徹尾強いだけの人間も弱いだけの人間もこの世にいるはずがないということを明確に理解するからだ。歴史上のどんな英雄にも弱さがあったということを実感できる。意味と無意味の関係と同じように、これも逆説的だが、自らの弱さを知った人間だけが強くなれる。英雄とまではいかなくとも、自分に必要な強さは必ず身につけることができるものだ。

 そして、自分の本当の姿と向き合うか否かという問題は、「どのくらい」という程度の問題ではない。二者択一の問題であると私は考えている。自分の本当の姿を見る気があるのかないのか、見るか見ないか、受け入れるか受け入れないか。これは神を信じるか否かという命題と同じ構造であって、もし受け入れていない部分があれば、向き合ったことにはならないし、結局またいつか現実から手痛いしっぺ返しを食う羽目になる。そのときに感じることは、こうに違いない。「やはり自分はまだ自分の本当の姿を知らなかったのだ」と。これは結局のところ自分を知らなかったということに他ならない。人はご都合主義に傾きやすいものだから、その時々の自分に都合の良いところだけを引き受けたいという誘惑にかられるものだが、そうは問屋が卸さない。人を愛するということを考えてみればよい。相手のここは好きだが、あそこは嫌いだという状態ではその人を愛しているとは言わない。相手の短所も長所も全て受け入れることなくして愛は成立しない。要は、自分に対しても同じことをすればよいだけのことなのだ。

 ただし、それが溺愛ではなく、健全な自愛であるためには、自分との(他人とも)付き合い方が道理に適っているかどうかが分かれ道になる。自愛(自分を大切にする)は、自分を甘やかすという意味ではない。もちろん、これは手段の問題ではない。道理に悖るような人間関係(たとえば不倫や援助交際等)は、いくら相手との付き合い方(方法)を改善したところで道理に適うものにはなりようがない。これは相手が自分であっても変わらない。それが正しいものであるかどうかは、道理に基づいて判断するほかないのだ。道と理、この二つを求める心(求道と究理)を保つこと、これが人間として正しくあるための根本であると思う。

 求道と究理の心を持つのみが、自らの脆弱さと無知・無能ぶりを自覚できる。そして、その自覚こそが謙虚と羞恥を持った心を育み、それが求道と究理をさらに推進する力となる。こうして生まれた好循環がその人の生を輝かせ、その人の人生を(そして周りの人間の人生も)ポジティブなものにしていく。これが意味ある人生というものではないのか。そして、そういう人生を送った人間が最期にそれを振り返ったときに初めて、それを幸せだったと形容するものなのではないだろうか。

 だいたい、本当に幸せなときというのは、その瞬間には幸せだとは自覚していないものだ。振り返ったときに初めてあのときは本当に幸せだったと気づくものだろう。悲しいことに、幸せでないときほど過去の幸せを強く感じるものでもある。だから、本当に幸せな人生というのは、求道と究理の精神を持って常に成長を続け、常に過去の自分よりも現在の自分の方が気に入っているという状態を保つ努力をしているうちに、気が付けば最期の瞬間を迎えていて、その時に初めてああ幸せな人生だったと振り返る、そういう人生のことだろう。残念ながら私ごときでは、そのレベルにはとても手が届かないが、少なくとも常に今の自分がこれまでで一番マシだと感じながら生きていたいと願いつつ足りない頭を絞っている。

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