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国語特別の授業 その1
久しぶりの更新です。
今の子供たちは言葉を使ってものを考えるということができません。
もう随分昔から、どうやってものを考えさせればいいかということで頭を悩ませてきました。
というのも、高校入試までなら、一般の人が考えるような、いわゆる勉強(問題の解き方を覚える)で何とかなるのですが、
その先のことは言葉を使って自分でものを考えられない人には到底無理だからです。
うちは、大学受験まで教えていますので、そういう状態ではそもそも授業にすらならない。
そこで、数年前から「国語特別」という講座を作って、様々なことをテーマとして取り上げ(塾生からのリクエストのこともあります)、
私が自分で学んだ知識を基に塾生たちと討論しながら進める授業を行っています。

外部の方にはなかなか説明しづらいので、今日は、私の講義録をアップして、
どんなことをしているか一例をご紹介しようと思います。以下、その内容です。

無知の功罪

まず、知には以下の4つの状態がある。

 ①自分が知っているとわかっていること:有知
 ②自分が知らないとわかっていること:知無知
 ③自分が知っていると思い込んでいること:錯覚知
 ④自分が知らないということさえわからないこと:不知無知

多くの人間は③の状態であるにもかかわらず、
自分が①だと思い込んでいる場合がほとんどであるということが心理学のテストで確認されている。
このことは、身近なもの、たとえばトイレ、携帯電話(スマホ)、電子レンジ、テレビ、コンピュータ、自転車、自動車などについて自分が本当に理解しているのかどうかを考えてみればわかるだろう。
確かに我々はそれらを「知っている」けれども、その仕組みを理解している人はどれだけいるだろうか。
試しに誰かにそれらの仕組みを説明をしてみるといい。
我々の「知っている」のほとんどが実は「知ったかぶり」で、錯覚にすぎないことが分かる。

どうしてこんな錯覚が起きるのか。
実際にそれらを自分が立派に使いこなしている(?)と思っていることが、
そのもの自体の仕組みを知っている、理解しているという思い込みを生むためだ。
知っているのは、その使い方に過ぎない(それも完璧ではない)という事実を、
我々はすぐに失念してしまう。
人間というのは、物事について必要十分だと自分が感じられる範囲のことを知っただけで、
そのもの全てを理解し、知っているものと思い込んでしまうという困った傾向を持っているわけだ。

錯覚知を生むもう一つの原因は、
人間の知そのものが、実は個人に属するものではなく、
集団(社会)に蓄積されているものだということにほとんどの人間が気づかないことによる。
どんな偉大な発明も、多くの先人が積み重ねて来た研究成果と協力者なしではなし得ない。
あらゆる分野で高度に専門化が進んだ現代では尚更である。
ノーベル賞の受賞者など、多くの発明や研究成果は個人の業績として多くの人に
記憶されてしまうために、どうしてもこの事実が忘れられがちになる。
しかし、無から何かを生み出せる人間などいないわけで、
この意味では、有史以来、人類が挙げて来た成果という成果はすべて、
先人たちの積み上げて来たものに、ほんの少し上乗せをしたものに過ぎない。

しかも、偉大な発明やその応用技術によって支えられている現代生活は、
ほぼすべての人間が日常的に利用している技術についてすら、
一人の人間が全てを理解するのは不可能なほど高度化、複雑化しており、
「全てのことを知っている(理解している)」人間はいないし、そういう人間になるのも不可能だ。
したがって、人間の知は、「自分が知っている(理解している)」ことよりも、
「どこかに知っている(理解している)人間がいる」というものの方が圧倒的に多いことになる。
我々の生活の大部分は、「自分が知っている」ことによってではなく、
「ほかの誰かが知っている」ことによって支えられているわけだ。
自分の命は自分以外の人間の知によって維持されていると言い換えてもいい。
これは、人間という生物が生来持っている社会性という特徴が、
知という側面にもはっきりと当てはまることを示している。

つまり、人間の知とは、他者との協力関係があって初めて有用なものとなる集合的なものなのだ。
これを集合知と言う。

問題は、自分は無知で誰かの知に支えられて生きているにも拘わらず、
それがあたかも自分の手柄であるかのように思い込んでしまう、我々の傲慢さにある。
この傲慢さが高じると、「自分の無知を認め、理解しようと努める」人間も、
「自分の知を人間社会のために役立てる」人間も、いなくなってしまう可能性がある。
不知無知な人間は自分が全知だと勘違いし、有知の人間はそれを全て自分の手柄だと思うからだ。
そうなると、社会の発展は停滞し、
生活を豊かにしてくれるような、有用で新しいものは何も生まれて来なくなる。

こうしてさらに社会全体の無知が進むと、この世に理解している人間など誰一人いないような、
多くの未解明のことについても、誰かがすでに知っている(理解している)ものと信じるようになる。
残念ながら、我が国においてこの現象は顕著である。
「森羅万象のうち科学で判明していることはどのくらいか」という問いに対し、
中高生が答えるパーセンテージは驚くほどの高さに上る。
「ほとんどのことは誰かがすでに知っている」と感じているわけだ。
これは、ほとんどの中高生が④の状態にあるという証左でもある。
彼らは、無知に無自覚で、有知に至る道程がどれほど険しいものかを知らないし、
何かを本当に理解することがどれほどの努力を要することかもわかっていない。

何かについて有知にたどり着いた人間(①)は、自分が如何に無知かを知っている(②)。
自らの無知を自覚した人間は傲慢でいられるはずがない。傲慢の反対は謙虚である。
自らの無知と向き合った人間は謙虚になるに決まっている。
謙虚であればおのずと、他人(社会)の知に対して敬意を払うはずだ。
決して独善的なものの見方を人に押し付けたり、断定的な口調で話すことはできないはずである。
自分が無知であることにすら気づかない(④)、あるいは、
知っているつもり、分かっているつもり(③)が人間を傲慢にする。
①②の人間と③④の人間、どちらが社会の福利向上に貢献するかは明白である。

知が個人でなく人間集団(社会)に属し、
それによって個々の人間が生かされているという事実に目をむければ、
社会に貢献できる有知の人間の方が無知な人間よりも偉いに決まっている。
その方が社会に貢献できるのだから「知っている方が、知らないより偉い」。
逆に、自らの無知に気づかず、他人や社会に向かって要求だけをする人間が
社会にとってどれほど害悪をもたらすか。
たとえるなら、全員が交代で漕いで進んでいる船(=社会)に、
自分だけは、まったく漕がず、漕ぐ気もない人間がいるようなものだ。
そういう人間は、船からつき落とされても文句は言えまい。
そういう人間が排除されずに増えれば、船は一向に進まなくなるし、
それまで一生懸命漕いでいた人間も、どんどんやる気をなくしていく。
そうして誰も漕ぐ人間がいなくなれば、船は遭難し、みな死ぬことになる。

この比喩は、まさにこの国の現状そのものである。
「知っている方が、知らないより偉い」
こんな当然のことが分からないまま育つ子供がどんどん増えているこの国の現状はあまりに危険だ。
昨今では自分が知らないという事実を偉いことであるかのように言う、倒錯した子供まで増えている。
これは、子供を大切にするという我が国の伝統が負の方向に働いた結果だが、恥ずかしいことに、
今や自分の無知を棚に上げて偉そうな態度をとるのは、子供だけではなくなってしまっている。
そして、そういう無知な人間の増加と反比例するように人口は減少し始め、
出生率も国力も低下の一途をだどっているのはただの偶然であろうか。

「恥ずかしいことに」と言ったが、これはかつての日本人なら当然の感覚であったろう。
欧米などと比べ、伝統的にこの国の人間の知的水準が非常に高かったのは、
「恥を知る」という教え(文化)でもって無知を戒めて来たからだろう。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺があるように、
かつては、「知らないことは恥ずかしいこと」であった。
残念ながら、今は馬鹿が大手を振って生きる世の中になってしまった。
それで果たしてこの国の人間は昔よりも幸せな人生を送っているのだろうか。
もし幸せな人生を送っている人が多いとすれば、
出生率が下がり続け、人口が減り続ける理由は何だろうか。
また、今この国に蔓延している閉塞感の正体は何なのだろうか。
この国の明るい未来を思い描けない人が増えたこと、つまり、
今を幸せに暮らしている人が減ったことが、これらの大きな要因だと考えるのは間違いであろうか。

この国に明るい未来をもたらしたい人、残りの人生を幸せに暮らしたいと思う人は、
まず自らの無知を認めるところから有知への第一歩を踏み出すべきだし、
人の親として子供たちの現状に危機感を抱くのであれば、
子供に謙虚さと恥という道徳律を教える努力をしなくてはならないはずだ。

しかし、この現状を知ったうえでも、やはり無知の誘惑に逆らえない人間も多いだろう。
というのも、恥知らずなことを甘受しさえすれば、無知でいることは何の努力も要しないからだ。
端的に言えば「その方が楽」だからだ(自分は船を漕がないのだから楽に決まっているが)。
知らないということさえ知らなければ(④不知無知であれば)不安になることもない。
それで、心の広い誰かが自分の代わりに知る努力を続けていてくれさえいれば困らないかもしれない。
もちろん、自分がコミュニティに何の貢献もしないことを他の人間が許容してくれる限りは、だが。

ただし、この道を選択をするのであれば、たとえ人から馬鹿にされても決して怒ってはいけない。
自ら馬鹿であることを積極的に選んだのだから。
偉そうに他人に要求することもできまい。自分は何の貢献もしないのだから。
ただ社会によって生かされている、生かしてもらっていることを自覚しなくてはならない。
謙虚になれとは言わないが、遠慮くらいしろ、ということだ。
自分の主張を表明する権利はあっても、自分の要求を通す資格はない。
有知の人間の言うことを素直に聞いて、自らの命を委ねていればいいのだ。

前段後半の主張は論理的に筋は通っているが、実は非常に危険な考え方である。
実際、この国の政治はこういう形になりやすい(すでになっていると言ってもいいかもしれない)。
これをテクノクラシーと言って(デモクラシー=民主主義ではない)、
エリート(東大卒の官僚や政治家)が全てを牛耳って、
国民には家畜のように黙って従うしか選択肢がないような政治の状態を言う。
これは民主主義(デモクラシー)の自殺である。
実はこれ、この国がかつて日中戦争~太平洋戦争へと突き進んだとき、すでに歩んだことのある道だ。
国民が自らの無知(自らの国力、アメリカの強大さ、国際社会の常識)に気づかず、
すべての判断を軍部のエリート官僚に委ねた結果があの破滅だったということを我々は知るべきだ。
当時の国民が無知ではあったが、無恥ではなかったことを考えると、
その両方に身を委ねつつある今は、さらなる破滅を招いても何ら不思議はない。

本来、民主主義の最大の利点は、民衆の英知を結集できるところにある。
自分だけの知識、一人だけで考えているのでは、よい判断ができない場合でも、
一人一人の知が互いの無知を補完し合うことによって最適解を出す可能性が高められる。
だからこそ民主主義が成立した近代以降に人類は地球史上類のない速さで豊かになった。
これが集団の知、つまり、集合知の最大の利点である。
現代は、インターネットを始め、集合知に誰もが容易にアクセスできる素晴らしい時代である。
にもかからず、ただ楽をしたいというだけで無知に身を委ねることは、
民主主義を否定し、今の豊かさを放棄すると表明するに等しい。
そういう人は、今ある文明の利器(トイレ、携帯電話、電子レンジ、テレビ、コンピュータ、自転車、自動車)を取り上げられても文句は言えない。家畜同然の生き方を自ら選んだのだから。

家畜のように生きることをよしとしないのであれば、有知を目指すほかないが、
有知を目指すうえでは、何も誰より優秀であろうとする必要はない。
自分の能力に見合った範囲で有知となり、その知をもって社会に何らかの貢献できればそれでよい。
有知の人間であることの証は、謙虚さと有知の人間に対する敬意を持っていることである。
謙虚さと敬意に欠ける人間は、無知かつ無恥な家畜であることは間違いない。
確かに家畜は楽かもしれない。
自らの無知と向き合う努力などしなくても、エサをもらって命をつなぐことはできる。
無恥でさえあれば。

無恥であること、無知であることを自らに許すのであれば、
今当たり前のように手にしている自由と、自由をはじめとするあらゆる権利を、
いつ奪われようと文句は言えないということを、我々は肝に銘じておかなくてはならない。

こう考えれば、無知を自覚し(②)て有知(①)に向かうのが人として正しい道であることに疑いはない。
しかし、選ぶのは君たち自身だ。強制はできない。
強制はデモクラシーを殺し、テクノクラシーに向かう誤った道なのだから。

このように、民主主義を実現し、守っていくのは困難を極めるということが、
知という側面からの考察によっても明らかになる。
これは古代ギリシャの哲学者、ソクラテスがすでに指摘した事実であることを我々は忘れてはいけない。


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