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できる子できない子4
 今回の「できる子、できない子」は、会話能力(コミュニケーション能力)についてです。

 当然と言えば当然ですが、これはもうハッキリと、できる子は高くて、できない子は低いです。
また残念なことですが、子供達に関する限り、この能力は年々下降の一途をたどっています。
関西人なのに冗談一つ言えない、冗談が通じない子供が増えているのは悲しい限りです。
面白いことを言うのは、常識をわきまえた上で言葉を上手に扱わなければならないという意味で、
実は高度に知的な行為です。息の長い芸人さんに頭の悪い人はいないと思うのは私だけでしょうか。

 うまいジョークを言うのは、かなりレベルの高い話になるので、
誰にでもできることではないとは思いますが、あるテーマについて、
軽い冗談を交えつつも真面目に話し合い、最終的な話の落とし所を考える、
そういう会話能力は将来どんな仕事をしようと必要だし、重要だと思います。
もちろん、その際に自分が理解できないことがあれば、説明を求めなければなりませんし、
逆に自分が分かっているなら、ほかの人が理解できるように説明できなければなりません。

 言葉を介して、我々人間は意思疎通を図るように進化して来ました。
他の動物と違って、眼球の白い部分が相手から見えるのも、その証です。
捕食者から身を守るにせよ、捕食者として獲物を捕まえるにせよ、
自分がどこを見ているのかを敵に知られるのは生存に大きなマイナスになります。
それで、人間以外の動物は白目が見えないのですが、人間だけは「あなたを見ていますよ」という意思表示、
つまり、他の個体との関わりの方を優先した結果、どこをみているか相手から見て分かるように進化したのです。

個体としては脆弱なヒトという生物が、会話(言葉)に基づくコミュニケーション能力に特化して
進化たことによって、社会という人間特有の集団を形成し、他の動物を凌駕する力を得たわけです。

 ちなみに、人間は公私二つ領域を持ち、社会とは公の領域のことですが、
他の動物が形成する集団は言わば一つの大家族であって、他の集団との接点をほとんど持ちません。
つまり人間以外の動物は、公の領域というものがなく、私の領域しか持たないわけです。
他の集団に属する同じ種族の個体は敵に他なりません。
したがって、厳密な意味での社会を形成できるのは人間だけなのです。こう考えると、
人間の持つ会話ないしコミュニケーションの能力が如何に重要か理解されると思います。
人間の人間たる所以と言っても過言ではないもの、コミュニケーション&会話能力というのは、
それほど人間の根幹に関わる能力なのです。学校の成績やテストで測れるいわゆる学力なんかより、
遥かに重要だと言えるでしょう。

 我々ができる限り、1クラスの人数を制限しようと考える理由もここにあります。
全員が我々と会話ができ、他の誰かが始めた会話にも自由に加われる人数に留めておきたいと考えています。
理想的な人数は参加するメンバーの能力によって大きく左右されます。
会話能力に問題がない生徒ばかりなら20人くらいまでなら問題なく授業が行えますが、
会話能力が低く、コミュニケーションが円滑に行えない生徒の場合だと2~3人でも大変です。

 内向的で自分から人に話しかけるのが苦手だという子がいます。
個性としてそれを否定するつもりは毛頭ありませんし、だから学力が低いとも一概には言えませんが、
会話能力が低いと大きなハンデになることは確かです。

 たとえば、分からないことがあったとき、分からないと言えない。
たとえ、こちらで分かっていないことを察知できても、
今度は自分で何がどう分からないのかが説明できない。
だから、こちらで色々と確認作業をして、何が分からないのかがようやく判明する。
自分で説明できる人と比べると、どうしても問題の解決に時間がかかってしまいます。
‘Time is money.’と言いますが、我々は時間をお金でカウントする社会に生きていますから、
時間がかかるということは、すなわちコストがかかるということで、
コストが多いというのは損ですから、やはりこれハンデ以外の何ものでもないのです。

 幾ら性格が内向的であっても、必要最低限のことはきちんと話す、話せるというのは
生きて行く上で不可欠なことです。社会で生活していく上での責任と言ってもよいでしょう。
教師としては、経験を積んで教える腕が上がって来ると、
そういう子がどこが分からないのかを言わなくても、瞬時に察知できるようになるのですが、
子供達にとっては、こちらが察知して言ってしまうのはためにならないと思うのです。
それでは、いつまでたっても分からないときに自分から聞けるようにはならないですし、
下手をすると、相手に察知してもらうのが当然という間違った意識を持ってしまうからです。

 ですから我々は、どこが分からないかを察知していたとしても、できる限り自分の言葉で言わせるように
しています。意地悪なようですが、問題を根本的に解決するためにはそうするしかありません。
しかし、これをやると、自分から言おうとするようになるまでに大変な時間がかかります。
本来ならどれほど時間がかかっても自分で言わせるべきなのですが、それでは一向に先へ進めない生徒もい
ますし、下手をすると「あそこの先生はちゃんと教えてくれない」などと言われたりします。もちろん
「さっさと言うてもうて片付けたいとこやのに、こっちは言わずに我慢しとんねんぞ(心の声)」とも言えません。
ですから、どのくらいで切り上げて教えてしまうかは、私達教師にとって非常に微妙で難しい問題であり、
永遠のテーマなのです。

 御家庭で「聞かれたことにはきちんと応えなさい」という、人として当然のことをしっかりと教えて頂ければ助かるのですが。

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