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私事と言訳
随分長い間、およそ半年もブログが更新できませんでした。すみません。

手前事で恐縮ですが、
実は、父が少し前から癌を患っておりまして、
家族の懸命な説得にもかかわらず、手術を拒み、
緩和ケア(痛みを緩和するのみで治療は一切行わない)を受けていたのですが、
昨年末に容体が急変し、年明け早々に入院、ほどなくして逝きました。

近親者を見送るのはこれが初めてではなかったのですが、
喪主を務めるのは初めての経験でしたし、
後始末にも奔走せねばならず、息つく暇もない状態でした。
諸事情から、葬儀に呼べなかった親類への挨拶回りなど、
まだ全てが片付いたわけではないのですが、
幸い、私は頼もしい弟たちに恵まれているので、
役所の手続き等、煩雑な仕事は、兄弟で手分けして
つつがなく終えることができました。

亡くなったのが、大学入試センター試験の直前という、
仕事柄一年で最も精神的に追い詰められるタイミングでもあったので、
受験を控えた塾生たちに自分の心の動揺が伝わらないよう、必死でした。
例年なら、3月の下旬には、受験の結果と年度の総括をUPしているのですが、
執筆中の本(本年6月出版予定)のこともあって、
ブログに手をつける余裕が全くないまま、気がつけばもう5月という有様です。
どうかご容赦ください。

幸い、高校受験は全員が公立の第一志望校に合格しましたし、
大学受験についても5年続けて国公立大学の合格者を出し、
私立大へ進学する塾生も本人が納得する結果だったので、
ほっと胸をなでおろしている次第です。

時期はずれになってしまいますが、今後、
大学受験に合格した塾生のことなど、書きかけになっているブログを
書き上げ次第、随時UPしていくつもりですので、よろしくお願い致します。
座間の事件について思うこと
「ここにいるとき以外は生きている感じがしません」

これは公立高校の上位校に通う塾生(女子)が授業中にふと口にした言葉です。
彼女は、不登校になったり、引きこもったりするような子ではありませんし、
対人関係でトラブルを起こすようなタイプでもありません。
身体を動かすのが大好きで、数学の才能に恵まれた、とても健全な女子高生です。

そういう子に「生きている感じがしない」と言わしめるほど、
今の中学校や高校の学校生活というのは張り合いのないものになってしまっているのです。
これを「その子個人の問題だ」と言って片付けるわけにはいかないくらい、
今の子供達には若さゆえの生命力というものが感じられません。

家庭では「あれをしちゃだめ」「これをしちゃだめ」と言われて育ち、
学校では「他のみんなと同じように」行動することばかり要求され、
自分では「周りから浮かないように」と周囲の顔色をうかがうことにエネルギーの大半を費やす。
やがては、生きること自体がつまらない義務の集積のようなものになってしまう。

現在のこの国の教育は、子供の個性や才能を引き出すためにあるというよりは、
全員を横一列に並べ、出る杭を打ち、全員の能力を均すこと以外に効果を上げてはいない、
と言ってもいいかもしれません。

今この国では、この横一線から上か下に外れてしまった者、つまり、
極端に能力が高い者と低い者は、肩身の狭い思いをすることになる。
何とか自分がそういう立場にならないようにするため、
みな当たり障りのないことしかしないし、言わなくなってしまっています。
こうして、毎日の生活がただただつまらないものになっていく。

現在、高校を中退する子供は、全国で毎年5万人以上、
小・中学校の不登校の児童数は実に12万人を超えています。
不登校になる子供自身、あるいはその家庭に問題がないとは言いませんが、
学校という教育システムが機能不全に陥っていることは確かでしょう。

しかし、これを社会的な問題と受け止め、心を痛める大人が果たしてどれくらいいるでしょうか。
義務教育を不登校のまま終えた人、高校を中退した人、そういう人達は一体どこへ行くのでしょう。
私にはこの国の社会は、そういう人達の居場所があるとは思えないのです。
この不登校や中退の問題は、おそらく引きこもりや自殺の問題と無関係ではないでしょう。
この国では、引きこもりは23万人を数え、
毎年の自殺者は2万人(交通事故死者の5倍、東北大震災の死者を遥かに)超えています。

先日、神奈川県座間市で起きた、9人を殺害・解体した事件でも、
容疑者の毒牙にかかった人の中には、中高を不登校で過ごした人がおり、
また全員が自殺志願者だったことが判明しました。
被害者達はみな、いわば自殺予備軍だったわけですが、
容疑者の話によると、その中に本当に死にたがっている人はいなかったと言います。
これは、本当に自殺してしまう2万数千人の背後には、
「死にたい」と思っている膨大な数の人間がいることを意味しています。

そういう人達は、おそらく本当に「死にたい」のではなくて、
日常の生活において自分が「生きている実感」が持てず、
また、自分が「生きている意義」を見出せないでいるのではないかと私は想像します。
彼らのように本気で自殺を考えるところまでは行かなくとも、
「生きている実感」「生きている意義」を感じられない人は、おそらく大変な数にのぼるでしょう。
こういうデータを見、先の女子高生の「生きている感じがしない」という言葉を聞くと、
とても残念なことですが、こう思わざるを得ません。

「果たして日本という国は人間を幸せにするのだろうか」


前回のブログで、
今の中学生の多くが小学生の頃のことをほとんど覚えていないと書きましたが、
彼女によると、
「日常生活では誰と接するときも、ほとんど自動化されたお決まりの対応しかしないし、
誰と話すときでも当たり障りのないことしか話さないから、何にも記憶に残らない」とのこと。
確かにそれでは「生きている実感」なんて持ちようがないかもしれません。

彼女自身も、うちに通い始める前(中2の終わり)までは、
そういう面白くもない日常を延々と繰り返すことが「生きる」ことだと思っていたと言います。
(正確には「生きているとさえ感じておらず、ただ義務をこなすだけの日々だった」と)
当然、自分がどうしたいのか、将来何をしたいのか、なんてことは考えてもみなかったそうです。
いやむしろ、そういう「自分本位なこと」は考えてはいけないものだとさえ思っていたようです。
彼女はそれすらも「自己中心的」あるいは「自分勝手な」態度とさえ感じていたそうですから。

新風館に来るまでの彼女にとって、「生きる」ということは、
個人的な欲求や願望を抑え込み、ただひたすら周りの人達に合わせて振る舞うことだったのでしょう。
彼女の言葉を借りれば、「無色透明な」人間になろうとしていたのです。
彼女は「自分が将来どうしたいのか」というのはもちろん、
「自分が一体どういう人間なのか」ということも「分からない」と言っていました。
そんな彼女は、うちに通い始めて学力はうなぎのぼりだったにも拘わらず、
自分で志望高校を決めることができませんでした。
「自分はこうしたい」という自分の意志に沿って物事を決めた経験が全くなかったからです。

これは随分後になってから聞いたことですが、彼女もやはり「自殺を考えていた」ようです。
もし彼女が我々と出会わずに「無色透明な」人間になろうとし続けていたとしたら、
彼女もまた座間で起きたような事件の被害者になっていたかもしれないのです。
実際、彼女は自分が被害者になったことを想像したと言います。
しかも、自分では死ねない人はそうしてもらった方がいいのかもしれないとも考えた、と。

しかし、命に関してはもちろん、どんな些細なことも、
自己決定を他人に委ねること、これは大変危険な罠です。
この国の多くの子供達(おそらく多くの大人も)それを知らない。
高校を決めること一つとっても、
「自分の成績ならこの学校くらい」「親にここへ行けと言われた」「この学校がいいという話を聞いた」
今や大半の子供(親も)がそうやって選びますが、どれも自分の意志で決めたとは言えません。
この選び方の何が問題かと言えば、
もし高校生活が上手く行かなかったときに、それを自分の責任だとは思わないところです。
「話が違う」「騙された」と感じるか、少なくとも「自分は悪くない」と思うことでしょう。
しかし、自己決定を他人に委ねておきながら、その結果について不満を言う権利などありません。
責任を伴う選択は決して自分では行わないが、結果が気に食わなければ拒否権だけは主張する。
これでは、毎年5万人も高校中退者が出るのも不思議ではないでしょう。

選択の結果に責任を持つ自己決定を行うためには、主体性と自律性が欠かせません。
今この国の教育に(あるいは人間に)決定的に欠けているのが、この主体性と自律性でしょう。
これらは、他人の顔色ばかり窺っている人間には望むべくもないものです。
自分の意志で行動する、それが主体性のある人間であり、
自分を律し、自らの言動には責任を持つ、それが自律性のある人間です。

こんな堅苦しいことを言わなくったって、
そもそも、「自分はどう生きたいのか」それを知っているのは自分だけです。
「自分はどういう生き方をするのか」これを決められるのも自分だけです。
もしそれが上手く行かなかった場合、その結果を背負うのも自分です。
人生における選択は、すべて自分の責任だと考えなくてはならないものなのです。

というのも、選択を他人に押しつけ、結果について責任を持たない人間は、
自由意思を放棄しているに等しいわけですから、
奴隷として生きることを選んだと言ってもいいことになります。
奴隷は文句を言ってはいけない、否、文句を言う権利すらないから奴隷なのですから。

「今ある自分の状態は、基本的には全て自分の責任である」
こんな単純なことが分からなくなってしまうとは。
日本人はみな頭がどうかしてしまったのでしょうか。
それで、みんなが幸せだと言えるのならまだしも、
自殺者が毎年2万人、不登校が12万人、引きこもり23万人という数字を前にして、
「日本は幸せに暮らせる国だ」と言う人がいたら、あまりに無神経と言うものでしょう。

「自分がどうしたいかを言えない国」「自己検閲の国」「生き方に選択の自由がない国」
とても悲しいことですが、それが今の日本という国の姿なのかもしれません。
これが「和をもって貴しとなす」という日本古来の考え方に由来するのだとすれば、
この国が再び破滅を迎える気がしてなりません。

こんなことを言っても、私の学んだ限りでは歴史的にもずっと、
国のこと、社会全体のことなど考えたりしない、
そんなものは自分と関係のない他人事だとしか思えないのが、
「ふつう」の日本人であるようです。
そして、数字としての死者などいくら数が多くとも、
悼むことなどできないのが人間というものです。

ですから、ぜひとも想像してみて頂きたいのです。
愛する我が子から面と向かって「生きている感じがしない」と言われるところを。
そして、我が子が座間の事件で被害者の一人になることを。

今の子供達は、そうなっても何の不思議もない状態、
言わば「生きながら死んでいる」のが「ふつう」なのですから。
~忘却~「水に流す」という風土の問題点
我々日本人は伝統的に「波風を立てない」こと「水に流す」ことで
人間関係がギスギスすることを避けています。
これは、狭い島国で顔を突き合わせて暮らさなくてはならなかった日本民族が
長い年月をかけて編み出した知恵だと思います。

これは、内輪の人間関係を破綻させずに維持していくのにはたいへん有効な方法ですが、
差し迫った問題を抱えて相談に来た外部の人間やビジネス・外交の交渉相手からすると
たいへんイライラさせられる、日本人特有の欠点とも言えます。

「波風を立てない」ようにする応対は、イエスかノーかもよく分からない場合が多いうえに、
お互い「水に流す」ことを前提とした対応は、どうしても緊張感を欠いたものになりがちで、
切羽詰まった相談相手や交渉相手からすれば、問題を解決するつもりがないように見えるからです。

そして、この二つは、日本人の「問題を先送りにする」体質とも深い繋がりがあります。

日本人というのは、集団の内部で大半の人間が現状に大きな不満を感じていなければ、
たとえ、組織的にいつかは大問題を引き起こしかねない弱点や欠点を抱えていると知りつつも、
それが顕在化するまでは、何の対策も立てないし、対処しなければという危機感も覚えません。
たとえその問題に気づいた人間がその問題が顕在化する前に対処しようとしても、
組織に属する大半の人間は、現状に不満がないがゆえに、積極的に動こうとはしないことでしょう。

したがって、多くの場合、
外的な要因(自然災害)や外的な環境の変化(経済情勢の急激な悪化)によって
あるシステムや製品が持つ弱点や欠点が白日の下にさらされることになるまで、
問題は放置され続ける。

たまたま、このブログを書き始めた直後から、神戸製鋼の不正問題が連日報道されているのですが、
同社の場合は自社の内部調査で判明したという点ではまだ救いがあると言えるものの、
新聞報道によれば、複数の元社員の方が三十年あるいは四十年前から不正があったと
証言しているようです。
報道では触れませんが、その人は不正を長年承知していながら、
何もしなかったということになります。なぜでしょう?

おそらく、
一つは、自分だけが正しいことをしようとすれば職場で浮いてしまうかもしれないという恐怖。
「波風を立てない」ことを是とする日本人の集団では、たとえそれが正しいことであっても、
平穏な日常業務に「波風を立てる」ような行為をすれば、その人の方が悪者になってしまうからです。
下手をすると、正しいことを言ったがゆえに、会社にいられなくなる可能性すらあります。
もう一つは、自分だけが正しいことをしようと頑張ったところで、
どうせ何も変わらないだろうという諦め、でしょう。

しかも、先の証言は「元」社員の話です。
たとえ会社を辞めた(その集団を離れた)後でも、日本人である限り、
「波風を立てない」「水に流す」という道徳律には拘束され続けるという証拠でしょう。
もし退社後にそのことを暴露していたら、その人はきっと転職先でも冷遇され、
社会的に行き場をなくしたのではないかと思います。
きっと、たとえ自分が正しいことをしたところでどうせ何も変わらないのだから、という諦念でもって、
自らの良心を慰めていたのではないかと想像します。
おそらく、この諦めの気持ちこそ、日本社会に長らく蔓延・停滞している閉塞感の正体でしょう。

ネットの書き込みに見られるように、
不正を行った企業や政治家を第三者の立場から批判(口撃)するのは容易い。
しかし、日本人である限り、おそらく大半の人間がその人と同じ立場であれば、
同じことをする可能性が高い、ということを我々は忘れてはいけないと思います。
(先の元社員の方も黙って不正に手を貸していたのではないでしょうか)

そして、もし問題が顕在化したとき、
たまたま自分が矢面に立たなくてはならない責任ある立場だったとしたら、どうでしょう?

非常に残念なことですが、多くの日本人は、問題を先送りしたことを悔いて反省するよりも、
ただ「運が悪かった」と思う気持ちの方が強いのではないでしょうか。
問題の本質にメスを入れて、痛みを伴う体質改善を図るよりも、
人(社会)がその問題を「忘れてくれる=水に流す」までじっと息を潜めて堪えることを選ぶでしょう。
だから一度不正に手を染めてしまった日本人の集団は、何度でも不正を繰り返すのです。

このように、日本人というのは、
ある意味とても無責任な体質を持った、非常に忘れっぽい民族であるということを、
我々はきちんと自覚し、肝に銘じておかなくてはならないと思います。
他人の非をあげつらって感情的な口撃を加える暇があったら、
自分は果たしてどうなのか、同じ立場なら同じ不正をしないでいられるか、
胸に手を当てて、よくよく考えてみるべきでしょう。

こうした体質に無自覚な日本人が多いために、、
不正や不祥事が発覚すると、いっときの感情にまかせて一方的になじる人がいるのでしょう。
しかも、その感情が収まってしまえば、あるいは、別の新しい情報が入って来れば、
自分が感情をぶちまけた問題そのものをすっかり忘れてしまう。

なじられる側はなじられる側で、それを重々承知しているから、
反省して問題の根本的解決を図るなんてのは二の次で、
とりあえず平身低頭、相手の怒りが収まるまで黙って堪えることを第一に考える。

まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というやつで、
これでは、肝心の問題は手つかずのままになって、そのうちまた同じことが起きるに決まっています。

このように、
日本人の「波風を立てない」「水に流す」という人間関係を破綻させないための知恵は、
裏を返せば、社会や企業の改善と発展、個人の進歩と向上を妨げる悪癖とも言えるのです。

だから、この国では、
本来ならすぐにでも解決されなければならないような切迫した問題(たとえば拉致被害者の問題)が
長きに渡って放置されるということが起きる。

個人レベルで言えば、
一つ一つの問題についてよく考えてもみることもなく、すぐに忘れてしまうため、
学んだ知識の集積もなく、それに基づいて自分なりの考え(思想)を持つこともない。
いわば穴のあいた器のようなもので、いつまでたっても自分という存在の中身は何もないままです。
何か事が起きても、自分の中に判断する材料がないので、
周りの人間の顔色をうかがいつつ、自らの気配を消す。
そうして大勢が決まったころに優勢な側につく。

直視するのは辛いかもしれませんが、これが日本人の姿なのです。
今に始まった話ではなく、おそらく、歴史的にずっとそうなのだと思います。
しかし、これでは、現在この国が教育目標として掲げる、
主体性や自律性を持った人材の育成などできるはずがありません。
もちろん、英語を話すのも無理でしょう。
(英語圏の文化は、主体性・自律性のある個人であることを大前提とするからです)

もし「主体性と自律性なんかいらない(英語なんか話したくない)」というのが
大半の日本人の本音であったとしても、
この国の法制度は、国民が主体性と自律性を持った人間であることを前提にしています。
基本的人権も、個人の権利も、主体性と自律性を持った人間であることを前提としたもので、
国民一人一人に自らの発言と行為に責任を持つことが求められます。
自らの言動もすぐに忘れてしまうような無責任な状態では、
本来なら自分の権利を主張する資格はないのです。

しかし一般的には、何でもすぐに忘れてしまうのが「ふつう」の人間だということになっていて、
自分なりの考えや意見を述べる主体性・自律性を持った人間は、異端者のような扱いを受けます。
「出る杭は打たれる」というやつで、これも昔からそうなのでしょうが、
とりわけ今の若い世代・子供達の世代では「ふつう」のレベルがどんどん下がっているのが気がかりです。
「忘れる」「覚えない」度合いが底なしに進行していると言ってもいいでしょう。
今や、若者・子供達の「ふつう」感覚では、
「覚えている方がおかしい」「知っている方がおかしい」「考える方がおかしい」ということになる。

にもかかわらず、この国の人間は学校の成績向上や高学歴の取得には随分と熱心です。
若者や子供の「ふつう」感覚を容認しておきながら、成績向上や高学歴を要求するなんてのは、
まさに「木に縁りて魚を求む」というやつで、あり得ない話なのですが。

ちょっと考えてみれば分かると思いますが、
「忘れるのがふつう」「知らないのがふつう」で、頭が良い人間なんているはずがありません。
「忘れるのがふつう」「知らないのがふつう」で、高学歴を望むなんてのは、あまりに虫が良すぎます。

成績向上や高学歴を望みながら、「ふつう」でいいと思っている状態なんて、
一体何をどうしたいのか、はっきり言って、わけがわかりません。
そもそも「頭がいい」というのは「ふつうではない」状態でしょう。
頭が良くなりたければ、「知っている」「覚えている」が当然の状態でないといけない。

学習とは積み重ねが基本ですので、何も記憶に残らないのでは積み重ねようがありません。
今年の中1の英語を例に取ると、I my me mine you your you yours … の人称代名詞を
半年以上かけて繰り返し練習させて来ましたが、ほとんどの子供がまだ完全に覚えていないのです。
それでは英語ができるようになるはずがありませんし、(話すなんて夢のまた夢です)
学校の試験で点を取れるようにしてくれと言われても、…です。

では一体どうすればいいのか?
「忘れるのがふつう」と思うのをやめて「覚えるのが当然」と感じるようになること、
つまり、マインドチェンジが必要なのです。これは子供に限りません。
今、日本人で自分の未来を明るいものにしたいと思っている人にとって、
このマインドチェンジは避けて通れないように思います。

まず、自分が出来ないことを誰か(あるいは何か)のせいにするのではなくて、
「忘れてしまう自分が悪い」「覚えていない自分が悪い」と考えなくてはいけません。
そう考えて初めて「大切なことはちゃんと覚えておかないと」という正しいマインドが身につく。
しかし「自分に甘い人」にとってはかなり難しいことでしょう。

私は、ご家庭で教えるべき最も大切なことが、この正しいマインドだと考えています。
本来なら勉強をご家庭で教える必要などないのです。
実際、ご家庭で勉強を教えている子供でできる子というのを我々は見たことがありません。
逆に、このマインドが身についているのにできない子というのも見たことがありません。

この意味で「勉強は自分でするもの」なのです。これは普遍の真理でしょう。
たとえ、どんなに良い先生がついても、正しいマインドなしでは決して出来るようにはなりません。
オリンピックで金メダルを獲ったスイマーが教えても、
全く泳ぐ気のない人を泳がせることは出来ないのです。

「大切なことはちゃんと覚えておかないと」という正しいマインドであれば、
できないことがあっても、「覚えていない自分が悪い」→「自分でちゃんと覚えないと」となって、
自分でやるようになるし、ほとんどのことは自分でできるようになります。
やがて「覚えるのが当然」になれば「できるのが当然」になるでしょう。

よく「うちの子は、勉強のやり方が分からないみたいなので、教えてやって下さい」と言う方が
いらっしゃるのですが、問題はやり方ではないのです。

というのも、「大切なことはちゃんと覚えておかないと」というマインドなしでは、
いくら教科書を読んだり、問題集を解いたりしたところで、
分からないこと、出来ないことがあっても、放置するからです。
できなかった問題も、正解を見て「ああ、そうなのか」で終わりでしょう。
そういう子は、必ずまた同じ間違いをしますし、何度でも同じ間違いを繰り返します。
正しいマインドであれば、失敗をした自分を責めるはずです。だから決して同じ間違いはしない。

勉強ができるようになるためには、やり方の上手下手ではなくて、
まずは勉強を自分の問題として受け止め、
分からないこと・知らないこと・出来ないことを一つずつ解決し、
それを「ちゃんと覚えておこう」という正しいマインドを持って、
自分なりのやり方でいいから取り組んでみることが必要なのです。
「勉強のやり方」が問題になるのは、その後の話です。

「勉強のやり方」を教えて効果があるのは、
自分なりに試行錯誤を重ねながら勉強して、ある程度出来るようになってから、
あるレベルから上に行けなくなって行き詰ったときです。
そのタイミングで「勉強のやり方」を教えると、
自分の試行錯誤を振り返ってどこが問題だったかを理解することができ、
すぐに自分のやり方を修正して、正しいやり方を身につけることができます。
正しいやり方なんていうのは、正しいマインドがあればすぐに身につくものなのです。

しかし、自分なりの試行錯誤をしたことのない子には、
一から手取り足取り勉強のやり方を指示したところで、
そのやり方が良いのかどうか判断する基準もありませんから、
どのみち言われた通りにはやりませんし、言われた通りにできやしないものです。

ですから我々は、
まず自分なりの試行錯誤をさせるために「好きなときに勉強しに来ていい」と言っているのです。
そして、塾生たちには「是非よい質問をして下さい」と何度も言っています。
勉強を自分の問題として受け止め、「理解しよう」「覚えよう」正しいマインドでいるならば、
必ず自力では解決できない疑問が出て来るはずだからです。

質問の内容によって、我々にはその塾生がどのくらいのレベルにあるのかが正確に分かります。
格好だけ勉強している子というのは、全く質問をしません。
すべて「ああ、そうか」で済ませてしまうからです。

自分の失敗を「ああ、そうか」で忘れてしまう子は、ほとんど無意識のうちに
そういう失敗を周囲の人間が「水に流す」ことを期待して生きています。
「大したことじゃないから忘れてよ」(問題で間違えても死にやしないし)
「そんなことで波風立てなくったって」(この程度の失敗をとやかく言われたくない)
彼らのマインドを代弁すればだいたいこんなところでしょうか。

もちろん、学校の成績なり試験のスコアというのは、記録にしっかり残され、
自分の将来に跳ね返って来るブーメランなのですが、正しいマインドでない彼らには、
自分が痛い思いをするその瞬間までそれに気づかないし、もしかすると、痛い思いをしたときも
「運が悪かった(もっと頭が良い人間に生まれたかった)」と思うだけで、
勉強しなかった自分が悪いと反省することもないのかもしれません。
そして一生、同じ失敗を繰り返し続ける。

今この国の若者や子供たちの多くは、こういう悪循環にハマってしまっているのだと思います。
しかし、今この国で、一体どのくらいの大人に、そういう子供たちの状態を嘆く資格があるのでしょう?

こんなことを考えているときに、日本を代表する大企業の不正が相次いで発覚しました。
とくに神戸製鋼は地元の誇りとも言える企業ですから、とても寂しい気持ちになりました。

そう言えば、今年の中3はこの時期になっても、自主勉強をしに来る生徒がほとんどいません。
これまた寂しい限りです。
卒塾生が来てくれるたびに思うこと
新風館には、お盆頃から9月(大学生はまだ夏休み)にかけて、
たくさんの卒塾生達が近況報告と後輩達の激励のために訪れてくれます。
塾生達に配っているおやつは、ほとんどが先輩たちからの差し入れです。
卒塾生達の温かい心遣いに感謝です。

初期の卒塾生達はもう三十歳を軽く越え、家庭を持つ者がほとんどで、
仕事が忙しいうえに子供もいる者が多く、どうしても会える機会が減ってしまいますが、
それでも時間が出来れば顔を見せにやって来てくれます。
本当に嬉しい限りですし、個人的にはこの仕事をやっていて良かったと思う瞬間でもあります。

アメリカ在住で帰国する度わざわざ来てくれる者、
転勤族で日本各地を渡り歩く者、地元に残って家業を継ぐ者、
幼い我が子を連れて遊びに来てくれる母親、
本当に人生色々ですが、みなとっても頼もしくなりました。

もちろん、人生というものは、常に順風満帆とは行きませんから、
悩みを抱えて相談に来る者もいます。
みんなもう立派な大人ですし、それぞれの分野で頑張っている人間ばかりですから、
私のように世間が狭く、大した能力もない者に、さしたる助言が出来るわけではないのですが、
みな熱心に耳を傾けてくれます。
きっと、みな私を立ててくれているのだと思いますが、
たとえ少しでも彼らの求めに応えられる人間でいられるよう、
これからも地道な努力を続けてゆこう、と思っています。

これまで私は、新風館という場所を
卒塾生達が大きな悩みを抱えたとき、立ち戻れる原点にしたいと思ってやって来ました。
私個人は、彼らにとって不動の道標であることを自らに課して来たつもりです。

ただでさえこの国の人間は時代の風潮に流されやすく、自分を見失いがちですから、
何かで行き詰ったり、大きな挫折を経験したとき、一体自分が何処に立ち返って、
どうやって自分を見つめ直せばいいのかが分からないという人もきっと多いことでしょう。
ですから、新風館は卒塾生達が困難な時に立ち戻れる原点で在り続けなくてはならない
と考えているのです。
一人一人の抱える問題を解決してあげることはできずとも、せめて、
共に悩み、進むべき道を見出す手助けができれば、と思っています。

この世に完璧な人間なんていませんから、誰にでも何かしら問題点はあるものです。
真摯にそれと向き合って、一つ一つ乗り越えてゆけばいいのです。
それが進歩というものでしょう。
若くて柔軟なうちに、それを地道にやった人間ほど、将来が明るいものになるのは自明の理。
しかし今の時代、自分という人格が抱える問題点を直視するのを避け、
「自分は正しい」と思いたがる若者の何と多いことか。

しかし、人生とは良くしたもので、
卒塾生達から相談を受けるたびに思うことですが、
自己評価が高過ぎて自分の欠点や弱点を自覚できなかった者や、
問題を自覚してはいても、きちんと向き合えずに先送りにしてしまった者、
あるいは、頑張ってはみたけれど、十代の間には克服できなかった者というのは、
人生のどこかのタイミングで、それがもとで大きな躓きを経験するもののようです。
在塾当時にも頑張っていた彼らですら躓くものなのですから、
若い時に頑張らなかった人間が大きな挫折を経験するのは当たり前でしょう。
人間、結局は自らの抱える問題点から逃げられやしないのです。

ですから我々は、今も昔も、塾生達の抱える問題点について、
本人に対しても親御さんに対しても、はっきりと指摘するようにしています。
見て見ぬふりをして問題をやり過ごしたところで、将来困るのは生徒自身ですし、
たとえ、今は本人に受け止める準備が出来ておらず、拒絶されたとしても、
いつかそれと向き合う時が来て「あのとき指摘されたことだ」と気づくかもしれないからです。
自分の問題点に気づきもせずにやり過ごした人は、きっと大きな挫折を経験した時でも、
自分の何処がいけなかったのかすら分からないでしょう。

この点で非常にまずいのは、昨今顕著である、
耳が痛い話はせずに済ませるのが当然であるかのような風潮です。
みな耳障りの良いおべんちゃらや、「いいね!」と言ってもらうことだけを期待する。
進歩向上を目指すうえでこれは、無意味であるだけでなく、はっきり言って有害です。
進歩向上のために取り組むべきは、問題点の洗い出しとその改善であり、
すでに出来ることを大声でアピールすることでも殊更に称賛することでもないでしょう。

しかし残念ながら、我々が単刀直入に塾生の問題点を指摘すると、
ほとんど条件反射的に拒絶反応を示される方がとっても多いです。

でもちょっと考えてみて下さい。
何も問題点がないのなら、とっくの昔に出来るようになってると思いませんか?。
進歩向上を妨げている問題点を放置したままでは、
出来るはずのことも出来るようにはならない。当たり前のことですよね。
何かを本当に出来るようになりたければ、自分の問題点を認めないといけない。
これって、何事においても上達するための大前提だと思うのです。

そりゃ耳障りのいい話ばかりしていて出来るようになるものなら、我々だってそうしたい。
しかし、人間は心の痛みを伴う努力をしなければ進歩向上できないものだからこそ、
何事についても誰もが上達できるというわけにはいかないのだという単純な事実に
この国の人間はそろそろ気づかないといけないんじゃないかと思います。

そういう心の痛みを引き受けるつもりのない人間が進歩向上を求めてはいけないし、
そういう人間が多数を占めるようになってしまった国では、
安定した豊かな生活など望むべくもないのだということに早く気づかなくてはいけません。
私ごときがこんなことを言わなくたって、
この国の豊かさを支えて来た技術者や職人さんにとっては、
きっと当たり前すぎるほど当たり前の話でしょう。

卒塾生たちが思い悩んで相談に来るのも、
心の痛みを引き受けて前進しようという意志あってのことと思えばとても心強いです。
彼らのような若者達が一生懸命頑張っているという事実は、
この国の未来に明るい希望を与えてくれます。
私達も卒塾生たちに負けないよう、もっともっと進歩しようと思います。

みんな、色々あるだろうけど、これからも一緒に頑張っていこう!

学習のスキーマ
人間というのは、生まれたままの自然状態では、この世界(自然界)に適応することもできない、
実に奇妙な生き物です。

そのためなのか、人間はこの世界をありのままに見るということが出来ません。
「この世界はこういうものだ」という主観的な解釈を前提にしてでないと、
この世界を見ることも、理解することも出来ないのです。
どうあがいても「世界を客観的に見る」ことは出来ない生き物なんです。

したがって、みな「自分の外にある世界はこういうものだ」という解釈をし、
その解釈に基づいて、独自の(主観的な)世界観を構築します。
そして、自分はどうすればその世界に上手く適応できるのかを考えるのです。

適応するにあたっては、誰もが、自らの解釈した世界で上手く生きていくために
自分にとって必要なこととそうでない事を判断しなくてなりません。
「あれは自分にとって必要だけれども、これは不要だ」というように、
誰しも、自分が身につけるべき知識やスキルの取捨選択を行っているのです。

その知識やスキルは自分の生まれた時代や文化、民族によっても左右されます。
たとえば、狩猟採集民として生まれれば、食べられる植物の知識や狩りのスキルを
身につけないことには生きてゆけません。その意味では選択の余地が極めて少ない世界です。
しかし、現在の日本に生まれた人間にとっては、
それこそ無数の選択肢があると言っていいでしょう。

たとえば、ある女の子が、
この世界を「若くて可愛いことが最も重要なところだ」と解釈すれば、
きっと、流行についての知識を仕入れ、
ダイエットの知識を仕入れ、ファッションセンスや化粧のスキルを磨くことを選択するでしょう。
そして、もしその子が、
「この世界に適応するのに、勉強ができることは必要ない」と判断すれば、
他人(教師や先輩親兄弟も含む)が、いくら口を酸っぱくして「勉強しろ」と言ったところで、
聞く耳を持たないはずです。
彼女は、知性に関わることを一切必要としないはずの世界に生きているのですから、
勉強しないのが当然なのです。

このように、
ある人が「勉強ができるか、できないか」あるいは「勉強するか、しないか」は、
何よりもまず、「自分の解釈した世界が一体どういうものか」という問題なのです。
もしその人がこの世界で生きていくうえで「勉強は必要なことだ」と感じていれば、
それこそ、親兄弟がどんなに「やめろ」と言ったって勉強することでしょう。

ですから、もし「この世界で生きていくのに勉強は必要ない」と思っている子供に、
本気で勉強させようと言うのであれば、まずその子の世界観を変えなくてはなりません。
これは、本来なら、家庭で対処すべき問題であって、他人に委ねるような仕事ではないと思います。

現代の先進国の社会においては、
子供が世界観を形成するのに最も大きな影響を与えるのは、間違いなく家庭だからです。
その次に影響力があるのが友人関係でしょうか。
学校の教師や我々のような塾の講師なんていうのは、所詮は他人、
子供の世界観の形成に関わるようなことについては、大した影響力など持っていないのです。
しかも、最終的な解釈の決定権はあくまでも本人にあります。
本人がその気にならない限り、周りの人間がどんなに頑張っても、変わらないのです。
その子の頭の中に入り込んで脳の神経細胞の配線をつなぎ直すなんてことが出来ない限りは。

「勉強など不要だ」という世界観の下で生きている子供に勉強をさせるためには、
本人が、何かのきっかけで「世界は自分が思っていたのとは違うかもしれない」と気づき、
「勉強することも必要かもしれない」と認め、
「ちょっとやってみようかな」と思い始めなくてはならないのです。
そうなって初めて、本当の学習が始まる。
我々に出来るのは、その子の世界観の欠点を的確について、
本人の世界観の修正を促すことくらいです。

もとより、我々も勉強させることを生業としているからには、
勉強が出来ない子の世界観を正すべく最大限の努力はしておりますが、
全ては、最終的に本人が気づきその気になるかどうかに懸かっているのですから、
その子の世界観が変わるのが、半年後になるのか、1年後になるのか、
はたまた、一生変わらないのか、実際のところ分かりません。

ですから、もし親として我が子に一生懸命勉強してもらいたいのであれば、
そもそもご家庭で、その子が世界観を形成し始める以前の幼い頃から
勉強が如何に大切かということを理解させなくてはならないのです。
これは、「勉強しろ」としつこく言うことでも、早くから塾へ通わせることでもありません。

一番効果的なのは、親が進んで何かを学んでいる姿を子供に見せることでしょう。
子供にとって、家庭が「生きていくうえで何かを学ぶのは当たり前だ」
と感じる環境であるかどうかが決定的に重要なのです。
これこそ、前回の記事で述べた「文化資本」の最たるものでしょう。

当たり前のことですが、親の世界観が子供の世界観の雛型なのです。
だからこそ、
高学歴の親を持つ子供はやはり高い学歴を手にし、
そうでない親の子供はまず学歴を手に出来ない、
そういう現実があるのです。

自分が高学歴を望めるような文化資本を子供に提供するのは無理だとお考えなら、
自分の子供が勉強しないことを受け入れる必要があります。
「それが嫌だから高いお金を払って塾へ通わせるんじゃないか」と言う方もおられるでしょうが、
同じ授業を受けているのに、知識をどんどん吸収する子供と、ほとんど習得できない子供がいる
という事実から目を背けてはいけません。

我々が教えるのは何よりもまず方法論です。
当たり前のことですが、目的のない方法論などありません。
勉強とは、この世界を科学的に理解するため、あるいは、この社会を論理的に把握するため、
その目的のための方法論を学ぶものです。
学問は、高い学歴や成績を取ることを目的とするものではありませんし、
学習する個々の事柄自体、決してそのようには出来ていません。
したがって、勉強(学問)は、
そもそも、世界を科学的に理解しよう、社会を論理的に把握しようという気がない者にとっては、
何の意味もない、ただただ無味乾燥なものなのです。

本来の目的を共有していない者に、いくら方法を教えたところで身につくはずがありません。
それは、野球をするつもりがない者に、無理矢理バットを振らせるようなものだからです。
その状態では、どんなに良い塾へ通わせようと、出来るようにはならないのは当然です。

「子は親の鏡」です。これは何人たりとも否定できません。
ですから、
子供に勉強させる以前に、まず親自身が、
「この世界を科学的に理解しようと思っているか?この社会を論理的に把握できているのか?」
あるいは、
「自分の主観的な解釈に固執して、世界を正しく見ることができないのではないか?」
と自問してみるべきでしょう。

子供の世界観を変えたければ、まず自分の世界観を疑い、変える努力をすべきなのです。
自分はそういう努力もせずに、子供を無理矢理机に縛り付けたところで(しかもお金まで払って!)、
子供から憎まれるのがオチです。必ず子供はこう思うでしょう。
「自分はやらなかった(やらない)くせに」

つまり、勉強しない子供に勉強させたいのであれば、まず親が努力しなくてはならないのです。
具体的には、親が進んで何かを学ぶことでしょう。
ご家庭が、子供から見て「大人になっても学ぶものなんだ」と感じる環境であれば、
むしろ子供が勉強しないでいる方が勇気がいるでしょう。
そして、親が何かを学ぶのを楽しんでいる姿を見れば、子供が学ばないはずがないでしょう。

じゃあ一体何を学べばいいのかと言えば、はっきり言って何でもいいのです。
自分が学んでいることが子供に伝わるのであれば、趣味のレベルで十分です。
ただし、続けなくては意味がありません。
新しいことを始めてみるのもよいですが、あれこれ手を広げ過ぎるのはお勧めできません。
できれば一つのことを深く掘り下げるのがいいでしょう。

普通の人が知らないことを知っていたり、普通の人に出来ないことが出来たりするのは
子供から尊敬されるものです。
子供が親に尊敬の気持ちを抱いていれば、将来に渡ってより良い親子関係を維持することも出来るでしょう。

子供に何かをしてやるよりも、自分が何かをしましょう。
自分が子供に何をしてやるかよりも、子供が自分達から何を感じ取るかに注意を払いましょう。
そして、まず親の自分が楽しんで何かを学びましょう。
そうすれば、放っておいても子供は自分から進んで学ぶようになるのです。