新風館通信
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祝 北海道大学 合格!
小4から新風館に在籍し、今年度で卒業する塾生のF君が、見事
北海道大学水産学部に現役で合格いたしました。

本年度の卒業生は先に紹介した明治大・法政大・関西大に合格した塾生と、
彼の2名ですので、お陰様で全員が第一志望校に進学することになりました。
しかも彼の合格で、2014年の神戸外大、2015年の京都大、2016年の山口大に続き、
新風館から4年連続で国公立大合格者を出すことができました。

彼も、一昨年度に京都大に進学した塾生と同様、男らしく北大一本勝負を挑みました。
センター試験の出来が良かったので、出願すれば必ず通る国公立大学があったにも拘わらず、
あえて前後期ともに北大に出願し、前期試験で見事合格を勝ち取ったのですから、
憎たらしいくらいカッコイイです。

こんなことを言うと、彼に悪いのですが、
彼が新風館に通い始めた小4の頃のこと思うと、文字通りの別人です。
入塾当初、漢字がなかなか覚えられなくて泣きべそをかいていたことを思うと、
そのあまりの変わりように、何だか不思議な気持ちにさえなります。
当時の方が今より確実に老け顔でしたね(笑)
今は、知性を備えた凛々しい顔つきの男前です。

もともと彼には吃音があって、文字を音読するのが苦手だったこともあり、
昔から国語を苦手としていました。
それもあってか、口数は多くない男なのですが、
根っから「いい奴」ですので、誰もが好感を抱く人柄の持ち主です。
当然人望があり、中学生の間に少しずつ、同世代の塾生の中で中心人物になっていました。

中1・2の間は小学校から続けて来た野球を軸に生活が回っていたと思います。
勉強については特別できる塾生でもありませんでしたし、
野球で目立った活躍をしていたわけでもなかったようです。
しかし、「継続は力なり」の言葉通り、地道に積み重ねて来たものが中3で開花し始めます。

中3も半ばに差し掛かる頃には、
後から入塾して来た同学年の塾生たちが、彼を中心として、
近年ではほとんど目にすることができなくなった、良きライバル関係を築いていきました。
文字通り互いに切磋琢磨し、互いを高め合う素晴らしい関係です。
レベルUPテストでも競い合って、4人で一気に高いレベルまで駆け上がりました。
彼もこの頃には小学生の頃の泣きべそをかいていたイメージを完全に払拭し、
「不言実行」という言葉が似合う快男児に成長していきました。
そういう彼がいたからこそ、他の3名もあそこまで成長できたのだと思います。
もし彼がいなかったとしたら、
同学年の塾生は高校入試であれほどの成果は出せなかったことでしょう。

同世代の塾生のうち、1名は須磨学園Ⅲ類・星陵に、1名は須磨学園Ⅱ類・北須磨に合格し、
この両名は須磨学園の成績優秀者として同校配布の資料に掲載されました。
さらにもう1名は須磨学のⅠ類と神戸高専に合格、
この3名に彼を含めた計4名が新風館高校部に残りました。
(うち1名は家庭の事情もあって、残念ながら高2途中で退塾しましたが)
彼自身は育英の特進理系(特待生)・北須磨に合格しました。

私立の併願校を見ても分かるように、実は、高校進学の時点では、
この4名の中で彼が学力的に一番というわけではなかったのです。
しかも、北須磨高校に進学した後は、
先のブログで紹介したもう1名の塾生とともに吹奏楽部に入ったのですが、
ほどほどにやるつもりで始めたはずが、彼の場合には、その人望ゆえに、
同級生からも顧問からも随分と頼りにされていたようで、
結局、高2の間はあまり手を抜くこともできず、
勉強面で大きなリスクを背負うことになりました。
高2の間、部活動との兼ね合いで、
苦手とする国語の授業を受講できない状態だったからです。

ですから、正直に言うと、文系教科担当の私は最後まで受験結果が不安でした。
しかも北大一本勝負と来たものですから、まさにヒヤヒヤものでした。
センター試験を上手く乗り切ったときは本当にホッとしました。

もちろん理系教科、特に数学については中学生の頃から光るものがあって、
上記の4名の中でも最も切れ味が鋭かったですから、
受験は理系教科の出来による所が大きかったと思います。
得意技を最後まで得意技として活かせる強さが彼にはありました。
長年に渡って磨き上げた能力に勝るものはないということを、
彼は見事に証明してみせたわけです。

彼のように小・中学校で野球をしていた人間が、
高校から吹奏楽に熱中するというのも珍しい話ですが、
彼の場合は、その経験を通じて、
野球部のような、いわゆる体育会系の人間が持つ典型的な思考・行動パターンについて
大いに疑問を持ったようでした。本当に良い経験をしたのではないかと思います。
体育会系と文科系の両方で集団を一つの方向に向かわせるために尽力した経験は、
将来に渡って彼を確実に助けることでしょう。

部活動と勉学の両立は本当に難しいことです。
彼の場合、部活動・勉学のいずれについても、
彼の持つ、ひたむきな姿勢が結実したと言い切ってよいと思います。
誘惑の多い思春期に、遊びにうつつを抜かすことなく、
何事に関しても謙虚に取り組む姿勢を貫いたからこそ、
大学入試も、この素晴らしい結果に結びついたのだと思います。

先日の授業中にも、
「今の子供達は学年に関係なく、入塾の時点では主語と述語を理解している人がいない」
という話になったとき、彼は、
「僕もここに来ていなかったら同じような状態だったと思うんで、人の事言えないです」
と言っておりました。
高い所まで登って来た人間なのに、謙虚な気持ちを忘れず、
決して自分が元いた場所、下にいる人間をバカにしたりしない、
そういう温かい思いやりの気持ちを持った彼の人間性があってこそ、
奢ることなく、地道な努力を続けられるのでしょう。

「地道な努力に勝るものはない」ということを、
ライバルの塾生達に対しても、身をもって示した彼。
とりわけ途中で辞めていった元塾生との立ち位置は、今では完全に逆転し、
おそらくこの先も元に戻ることはないでしょう。
彼は黙々と努力を続けられる人間だし、
また、その際も決してしんどそうな顔をしない男ですから。

彼のような人間が増えれば、きっとこの国はもっと優しい社会を築くことができるでしょう。
そういうスピリッツの面でも、彼は新風館の小中高一貫教育の理想を体現してくれました。

もちろん、彼の成長はご両親の支えがあってのことです。
彼のご両親は彼が北大一本で勝負をすると決めた時も、
「自分の好きなようにしたらいい」と言ってくれたそうです。
そういうご家庭があったからこそ、
我々も彼の教育に心置きなく尽力することができました。本当に感謝です。

この先、彼に明るい未来が待っていることは疑う余地がありません。

本当にお見事!そして、本当におめでとう!

祝 明治大・法政大・関西大 合格!!
中2の9月から新風館に在籍しているNさんが、見事

 明治大学 政治経済学部 地域行政科
 法政大学 法学部 国際政治学科
 関西大学 法学部

の三校に合格!いたしました。

本当に立派な結果だと思います。
センター試験で1教科失敗してしまった影響で、センター出願・センター併用の試験ではなく、
一般の入試で出した結果ですから、尚更立派なんですね。本物の実力がないと出せない結果です。
これまで有名私立大学入試で、これほどコンスタントに結果を残した塾生はおりません。
文系スペシャリストとしての面目躍如ですね。

彼女には失礼ですが、正直に告白しますと、
彼女が中2で来塾した時には、ここまで成長するとは私も想像していませんでした。

彼女は素直でおおらかな性格なので、
入塾当初から、こちらが教えたことは真面目に丁寧に黙々とこなす生徒でした。
ただ、素直で真面目な分、視野が狭く応用力に欠けるところがあって、
高校進学のことだけを考えれば何の心配もいらない生徒ではあるけれども、
大学進学のことを考えると伸ばすのが難しい生徒、というのが、当初我々が抱いていた印象でした。

成長する過程では、必ず自分の殻を壊さなくてはならないときが来ます。
それが出来なくなくなったときが、その人の限界だということです。
人は、自分の状態に安住(満足)した瞬間に成長は止まるものだからです。

彼女のような人は、同級生に文句を言われたり、
先輩や教師から何か改善を迫られたりといったことがほとんどないと思います。
それは、ある意味では、とても良いことですが、
同時に、自分の殻を破る契機が少ないということでもあります。
自分自身とも他人とも折り合いがつかないという状態をあまり経験しませんから、
自分の殻を破る必要性を感じることが少ないからです。

多くの方は「悩みはない方がいい」と思っていることでしょうが、
成長という観点からすれば、むしろ「大いに悩んだ方がいい」のです。
とりわけ成長期には。

彼女のように、他人から見てこれと言った短所、文句の付け所がない人というのは、
葛藤と言える葛藤を抱えることもないまま、あまり大きな変化もないまま時が過ぎ、
そこそこのところへ何となく進学し、
そこそこの就職先に何となく就職するというパターンになりやすい。
人間が小さくまとまってしまいがちなのです。

『素直でおおらかな性格を大切にしながらも、
他人に利用されたり、騙されたりすることのないよう、知的レベルを向上させる』
実はこれ、なかなか難しいことなのです。何よりも心理的な壁を乗り越えるのが難しい。

これはあくまでも私の想像で、本人に確認を取ったわけではないのですが、
入塾するまでの彼女は、おそらく我々のように、何でもストレートに言う人間に会ったことがなく、
当初はカルチャーショックのようなものを受けたのではないかと思います。
もちろん、直接彼女に対して言った言葉ではなくて、別の生徒に対しての発言のことですが。

また、彼女の入った学年というのが、幸か不幸か(勿論結果的に幸運だったと言えます)、
小学生のころから在籍している塾生を中心に、何名かの男子が良きライバル関係にあって、
彼らに対しては我々も文字通り手加減せずにものを言っていたものですから、
もしかしたら「一体何だこの人達は?」くらいのことは思ったかもしれません。

そういう時、彼女のような人(とくに女子)は、拒絶反応を示すことが多いです。
自分の問題をはっきりと指摘されることに慣れていないし、
自分に問題があると考えたことのない人(私自身も含め、問題のない人間などいないのですが)というのは、
そういうことに対する耐性が低いものだからです。
きっと「そんなことを言われたら自分は堪えられない」と感じるのでしょう。

とくに彼女のように根が善の人は、ものをはっきり言う人を悪(他人を傷つける人)だと感じやすく、
そういう人から本能的に距離を置こうとするものですから、
我々の本当の意図を理解してもらう前に辞めてしまうこともあります。

けれども彼女の場合は、本当によく頑張ってくれました。
表情には出さずとも、我々の発言によって、気持ちが不安定になることもあったでしょう。
そういう気持ちと折り合いをつけるために苦労したこともあるでしょうし、
きっと、それまで経験したことのない葛藤も覚えたことと思います。
けれども、結局、彼女は一度も弱音を吐かなかったし、逃げるそぶりも見せなかった。
本当に立派でした。

決して器用とは言えない彼女が、我々の話をゆっくりと時間をかけて咀嚼し、消化して、
新しいものとして一つずつ自分の中に位置づけていく過程は、
決して劇的ではないにせよ、着実に前に進む、ゆるやかな右肩上がりの軌跡でした。
気がつけば、中3の受験を迎える頃には、
地域で最も難しい私学を併願で受験できるまでに学力が伸び、
これはあとから分かったことですけれども、
そのときの受験結果は、その学校が配布する成績優秀者の上位にランクされるほどでした。

さらに彼女は、公立高校へ進学したあとも、部活動はそこそこにして、
我々のところへ通い続けるという決断をしてくれました。
同学年で残った塾生は、先に述べた良きライバル関係を築いた男子ばかりだったのにです。
本当に嬉しかったです。我々の思いが彼女の心に届いたということだからです。

もちろんこの時点では、最初に述べた彼女の問題が全て解決したわけではありません。
ただ、この頃には彼女自身がある程度までそれに気づき、
その改善に取り組もうという気持ちがあったからこそ、残ってくれたのだと思います。

学問の本質の一つに「当たり前を疑う」ということがあります。
たとえば、ニュートンの万有引力の発見。
リンゴが木から落ちるというのは、誰もが目にしていた「当たり前」のことです。
そこに「なぜ?」という疑いを持つことから発見は生まれる。

学問(勉強)ができない人というのは、「なぜ?」と疑問を抱くことがなく、
言われたことを、ただ「当たり前:それはそういうもの」として覚えるだけです。
だから、その知識からは何も生まれないし、その知識を何かに役立てることもできない。
「成績が良ければそれでよし」と考えるのはまさにその状態で、それではただの「勉強バカ」になってしまいます。

彼女のような人は素直で真面目な分、そういう状態に陥りやすいものです。
しかし、そういうやり方が通用するのは中学まで、高校から先はそれではとても無理なのです。
きっと彼女はそのことに薄々気がついていたのでしょう。

とは言え、もともと素直な子に「疑え」というのも、ある意味、酷な話です。
きっと彼女も随分悩んだことでしょう。
きっと「私ってバカかもしれない」と思ったことは、一度や二度ではないと思います。
けれども、彼女はただの一度もネガティブな様子を見せたことはありませんでした。
彼女が「自分は本当に出来るようになるのだろうか」という不安な気持ちに堪え、
前向きで居続けることが出来る人だったからこそ、ここまで成長することが出来たのだと思います。

普通なら、限界を感じた時点で逃げ出すことでしょう。とくに昨今の子供たちは。
しかし、彼女はそういう気配すら感じさせなかった。辛そうな顔もしなかった。
時々眠そうな顔はしていましたが(笑)。

彼女のように、情緒が安定していて気分にムラがないというのは、
思春期にはとても難しいことです。まさに、ご家庭の情操教育の賜物ですね。
それがあってこそ、我々も本気で才能を引き出す教育が施せるのです。
親御さんに本当に感謝です。

情緒の安定、彼女の最大の強みはそこにあったのかもしれません。
成績も高1~高2の半ばくらいまで本当に安定していましたし。

彼女のような安定感がある人は人の信頼を勝ち得ることができます。
私も、高2の秋に行った高校生の合宿では、金銭の収支管理を彼女に一任しました。
まさに適任で、何の心配も不安もなく任せることができました。

その合宿期間中には、指導の5年間を通じて最も驚かされた出来事がありました。
それは、夜中に皆で「人狼ゲーム」をしたときのことです。
もともとの彼女は素直で正直な人ですから、上手に嘘をつかなくてはならないこのゲームは、
彼女の最も苦手とするところだったはずでした。ところが、彼女は全員を見事に欺き、
嘘をつくゲームでも立派に勝者になれる能力があることを証明したのです。
私も見事に騙されましたし。久しぶりに「女は怖い」と思いましたね(笑)

上手に嘘をついたことを喜ぶというのも変な話に聞こえるかもしれませんが、
教育心理学的に言えば、上手な嘘をつけるということは知能が高い証拠なのです。
彼女が、私たちの予想を遥かに上回る成長を遂げていることは明らかでした。
勝った後も涼しい顔をしている彼女はさらに素敵でしたし。
このとき、これなら大学受験も行けるという確信を持ちました。

高校部の塾生はみなそうなのですが、我々の方から何か具体的な進路を勧めるということはありません。
そこまでの段階でみな自分で考えるべきことを良く分かっているからです。
もちろん、アドバイスを求められれば喜んでしますが、彼らにとってそれはあくまでも参考にするものであって、
それに振り回されるということはありません。
主体性をもって学んだ来た人間なら、
自分の人生は自分で決めるものだということをよく理解しているからです。
彼女も自分で考えて受験する学部を決めました。我々はほとんど何の相談も受けていません。

高3の1学期くらいから2学期の初め頃にかけて、模擬試験の結果が随分下降しましたが、
そのときも、「このままではいけないということだね」という言葉だけで十分でした。
それだけで、何が問題なのかを共有できるレベルに彼女が辿り着いていたからです。
ふつうに考えれば、大変な危機感を覚えるものですが、
このときも彼女は落ち込んで深刻な顔をしたりはしませんでしたし、
もちろん、投げることもなく、自分の出来ることをやり続けました。
自分の何が問題なのかも、それを克服するのがとても難しいことも、
全部理解したうえで、ネガティブにならないところが彼女の凄いところなのです。

彼女にはまだ明確な将来の目標があるわけではなく、
それを探すために大学へ行くつもりでいるようです。
普通なら、そんな動機では彼女のレベルには到達できませんし、結果も出ないものです。
(マグレで一つくらいは受かるかもしれませんけども)
それが出来たのは、彼女の「素直さとおおらかさ」が本物であり、
「ただ従順でおとなしい」のとは全く違うからです。

自分の知性を磨く必要を覚えたら、そう感じた自分に素直に従う。
相手が言っていることが正しいと分かったらそれを素直に受け入れる。
これをサラッと出来る人間はなかなかいません。

彼女に明るい未来が待っていることは疑問の余地がないと思います。

本当に、おめでとう!大学で自分らしい目標をみつけて下さい!そして、素敵な大人の女性になって下さいね!
新著作執筆のご報告
この度、以前書かせて頂いたのと同じ出版社の担当の方にまたお声をかけて頂き、
もう一冊著作を出すことになりました。

最初の著作を出して以来、別の出版社の方からも何件かお声をかけて頂いたのですが、
私は作家でも何でもないので当たり前なのですが、自費出版という形でのお誘いでした。
そんな経済的な余裕はありませんし、名誉欲があるわけでもないので、お断りしていたところ、
先日、同じ出版社でもう一冊書かせて頂けることになり、大変有難く思っております。

galaxy株式会社さん(旧称galaxy books)さんには心より感謝致しております。
担当の小畑さんも大変気持ちの良い方で、また一緒にお仕事ができることを
心より喜んでおる次第です。

今度はもう少し具体的に教育問題に切り込む内容にしたいと思っています。
お子様の教育、学級崩壊、いじめ等にお悩みの親御様方の一助になればと思っています。

また半年~10ヶ月ほど睡眠不足になりつつも、充実した時間が送れると思うと、
今からワクワクしています。

もちろん本業が疎かになるようなことは決してありませんのでどうかご安心ください。
継続は力なり
「継続は力なり」

聞くところによると、
この国では座右の銘にしたい格言の第一位だったそうですが、
今や死語になりつつある気がするのは私だけでしょうか。

「何かを我がものにするというのは、一朝一夕にできることではない」

当たり前のことです。そんなの常識ではないですか。本当はそういう反応が返って来てほしい。

教育学の書物によると、「1万時間の法則」というのがあるそうで、
運動であれ、勉強であれ、完全にものにするには実際そのくらいの時間がかかると言います。
これは長くこの仕事をしてきた我々の実感とも一致します。

毎日欠かさず4時間費やしたとして2500日=7年弱の歳月を要することになり、
毎日5時間でも2000日=約5年半です。
しかし、一つのことだけに毎日5時間というのは実際にはほとんどあり得ない。
たとえば、英語を習得しようという場合、
英語だけを毎日5時間勉強するというのは、ちょっと難しいと分かるでしょう。
これは、大学で英語を専門にした場合には可能かなというレベル。

普通は、よく頑張って毎日2~3時間くらいが精一杯でしょう。
毎日2時間として5000日=13年半ちょっと、3時間できれば9年とちょっと。
現実には、休日もあることを考えれば、
毎日に2時間半、4000日=10年とちょっとというのが現実的なラインではないかと。
つまり、何かを完全に習得するには普通10年はかかるということなんです。

しかも、たとえば3年は続けたけれども4年目は全くやらなかったとすれば、
ゼロには戻らないにしても、それまで身に着けたものの多くは失われてしまいますから、
続けて10年でなくてはならない。まさに「継続は力なり」なのです。

しかし、「英語を自由自在に使えるようになりたい」と思う人自体は、
かなりの数に上るでしょうが、実際に10年続けて頑張れる人というのはそういない。
結果、自由自在に英語を操れる人は少ないわけですね。

特に、今のように世の中の変化が速い=移り気な時代には、
何でももっと速く、短い時間で何とかなるんじゃないかという気がするのかもしれませんね。
昨今、何でもスパンが短いですから。
大々的に報道された事件が忘れ去られる早さ、流行り廃りもびっくりするほど速い。

しかし、どんなに世の中の変化や進歩が速くても、
人類が生物学的に進化したのでない以上、
そんなに短い時間でなにかができるようにはなるはずがありませんよね。
我々が人間である限り「1万時間の法則」は揺るがないのです。

ですから、我が子の将来を思うのであれば、
家庭で子供に教えるべきなのは、勉強そのものではなくて、
何か一つのことを継続することの大切さ、
さらに言えば、それができる家庭環境を整え、継続性のある強い心を育むべきでしょう。
間違っても、目先の成績を云々するだけといった、
短絡的で狭窄な考え方を子供に押し付けてはいけないのです。

今ふと思ったのですが、この話、
料理人の修業を考えれば分かりやすいんじゃないでしょうか。
本当に美味しいものを造れるようになるまでには、それこそ10年はかかるでしょう。
どう考えても、2年や3年でどうにかなるようなもんじゃない。
インスタントラーメンの作り方を覚えるのとはわけが違いますからね。

でも、もしかすると、昨今では大人も子供も、
勉強をインスタントラーメンと勘違いしている人が多いのかもしれません。
しかし、それじゃ老い先知れたものと言わざるを得ません。
インスタントラーメンしか作れない料理人がいるはずがないのと同様、
その状態では社会に出てもどうせろくな仕事はできませんから。

要は『「継続は力なり」ということを何かの分野で体験し、実感しているかどうか』が
一番大切なんです。たとえ、それが自分が仕事にすることになったことと関係がなくても。
一つのスポーツを続けて来た人は年収が高いというデータがあるそうです。
それはまさに、仕事を習得するのに不可欠な継続の重要性を体得しているからだと思います。

我々はこの大切さを子供たちに日々説いているつもりです。
ですから、このことを理解してくれた子供たちは当然のことながら長く当塾におります。
一日のうちの時間はもちろんのこと、在籍期間についてもそうです。
短くても5~6年、長い子になると大学に進学する時点で人生の半分以上という時間です。
それでも、一つのことについて1万時間という時間にはなかなか及びません。
ですから、大学に進学して当塾を卒業していく時点で、
塾生たちはみんな、自分達がまだ道半ばであることを承知しています。
彼らはちゃんと「合格して終わりではないのだ」ということを理解しているのです。

昨年度に山口大学へ進学して行った塾生も、一昨年度に京都大学へ進学して行った塾生も、
同年に弘前大医学部へ進学して行った塾生も、みな同様の言葉を残していきました。
彼らは、今でも半年に一度は来塾して、自らの進化を後輩たちに見せてくれています。

「自分なんてまだまだですよ」 彼らは口を揃えて言います。本当に頼もしい限りです。

合格したことに安堵して、勢い遊び回るだけの大学生とは大違いです。
有名大学へ進学してなお、その立場に安住することなく自らを磨く、
そういう人にこそ明るい未来は訪れるのではないでしょうか。

我々は、目先の成績のことで頭が一杯なんていう生徒の視野を広げ、
もっと腰を据えて、継続した学びに入ってくれるよう日々努力を重ねています。
「わかりやすい」のは良いことか?
何でも「わかりやすい」というのは本当に良いことなのか?
難しいことを分かりやすく教えることを生業にしている人間が、こんなことを言うとお叱りを受けそうですが、
分かりやすく教えることの、難しさと限界を知っているからこそ、その弊害もよく見えるのだと思って頂けると幸いです。

今や「わかりやすい」ということは、
ありとあらゆる分野で暗黙の前提になっていると思います。
テレビ番組や芸人の芸風などの娯楽に始まり、マスメディアによる報道、
個人が自由に発信できるツイッターやインスタグラム、SNSに至るまで、
「わかりやすいのを良しとする」という風潮は、それこそ社会の隅々まで行き渡っています。

私が危惧しているのは、この風潮が行き過ぎると、
「どんなことでも、時間にして数十秒、せいぜい数分の説明を聞けば理解できるものだ」
と勘違いしてしまう人が増えるのではないか、ということです。
十分な批判能力がまだ備わっていない子供たちは特に危ない。

何でもわかりやすいのが当然だと思ってしまうと、
「どんな分野でも、長年の努力の積み重ねがあって初めて、本当に理解できるようになる」
という至極当たり前のことが忘れ去られてしまう。
社会問題など色々な要素が組み合わさって起きるような、複雑な問題についても、
短絡的で浅薄な見方が横行することになってしまいます。

そういう社会に暮らす個々の人間は、
この世に自分には分からないことが存在するという単純な事実も受容できなくなる、
むしろ、もし自分が理解したいと望みさえすれば、世の中のあらゆる事象は、
自分にとって瞬時に理解できるものだと勘違いしてしまうかもしれません。
この認識に立つと、結局のところ「自分に理解できないことなどない」というある種の万能感に行き着かざるを得ない。

実際、近年の中学生たちは、恐ろしいことに、
「この宇宙で人類が解明したことは全体の何%になると思うか」という質問をすると、
「80%~90%」と答える子供が多く、中には平然と「全部(100%)」という子もいます。
もはや神の領域ですね。

低く見積もる子でも、50~60%というのが一般的で、一桁%と答える子は、非常に少ない。
本当はコンマ以下もいいところなんですけども、そう答える子はごく僅かです。
ほとんどの子供は、ほとんどの事象について、正解はすでに分かっていて、
それがテストに出るものと思っているわけですね。

実際には、これまでの人類の叡智を結集しても、この世にはわからないことだらけなわけで、
だからこそ、人類は無数にある謎を一つでも解こうと、日々学び、前進する努力をしている。
日常の社会生活においても、正解なんて分からないことの方が多い。
子育て一つとっても、本当はこれが正解というやり方などありません。それが現実世界というものです。

そこで生きてゆく人間にとって重要なのは、
「学んだことをもとに、現実の諸問題をどう解決するかを考えること」です。
したがって、そういう人間を育てるためにある教育が、本来目的とすべきは、
学びを通じて自分の勝手な思い込みを排除し、
正しい解を導き出す頭の使い方を習得することであるはずです。

しかし、何でも短絡的に理解できるものと思い込んでいる人(特に子供)は、
何かについて、自分で努力して深く学び、そうして学んだことによって、
それまで自分の間違いに気づき、現実認識を修正してゆくという、
人間として成長するために本来なら不可欠であるはずの道程を、
歩むということ自体ができない人格構造になっているのです。
そういう人は、おそらく主観的には、わざわざ苦労してそんな道のりを歩む必要性すら感じないのでしょう。

そういう人にとって、現時点で自分には分からない事柄というのは、
自分が望みさえすれば、「いつでも分かるようになるはずのもの」、あるいは、
「いつか誰かが自分に分かりやすく説明してくれるもの」ということになりますから、
それを理解するために自分が苦労したり、努力したりする必然性がないものということになるのでしょう。

彼らは、たとえ何か分からないことにぶつかったとしても、
「今の自分にはそれを本気で理解しようという気がないから分からないんだ」とか、
「今は別に本気で理解したいとも思わないし、別にいいや」と片付けてしまうでしょう。
こうして、彼らは自分の無知を自覚し、学び始めるチャンスをふいにし続けていくのです。

現実には何も知らないし、何も分からないままであるにもかかわらず、
潜在的には何でも分かるということにしておくことによって、
主観的には「知らぬが仏」的無敵状態(客観的には無知無能状態)を維持するのです。

そして、そういう人は「そういう自分は正しい」という絶対的な前提に立って外の世界を見ますから、
身近に優れた人がいたとしても、その人のレベルに少しでも近づこうと努力しようという発想すら持たないのです。
実際に自分でやってみなければ、努力をしてみなければ、
高いレベルにある人の苦しみや悩みを理解できるはずもないですから、
そういう人にとって、優れた人というのは、嫉妬の対象にはなっても、尊敬の対象にはなり得ないのです。

努力をすれば、自分が如何に情けない状態なのか、気づきます。気づかざるを得ません。
もしかすると、そういう惨めな気持ちを感じたくないから、「知らぬが仏」的無敵状態を維持しようとするのかもしれません。
でもそれは「恥の上塗り」を続けるだけのことです。

安易に「わかった気になる=自分を誤魔化す」のは実に簡単です。
一方、「自分は本当にわかっているのか=短絡的な説明に誤魔化されてるんじゃないか」
そう自分に問い、正直に答えるのはとても困難です。

長年この仕事を続けてきて感じるのは、「安易にわかりやすい説明に逃げないこと」
これが出来る人と出来ない人を分ける試金石だということです。


このように「わかりやすい」ということは、良いことばかりとは限りません。
メディア等で、自分の専門とする事柄に関する報道を見聞きすると、違和感を覚えることがあると思います。
「本当はちょっと違うんだけどな」と。
これは、自分が本当に知っている・わかっている分野の場合、
報道の情報が如何に浅薄で表面的な説明に終始しているか理解できるからです。

不特定多数に向けた報道というのは、本来そういうものなのであって、報道内容を全て鵜呑みにするべきものではありません。
こちらが、その情報をどう読み解くかが重要なのです。
情報過多の現代社会に生きる人間はこのことを十分承知しておく必要があります。
ちなみに、メディアリテラシー(今では中学生の国語の教科書に出てきます!)というのは、そういう意味ですよね。

「わかりやすい説明」というのは、どうしても実態とズレる点がある。
この事実を念頭においておかないと、何でもわかったような気になる危険性があります。
したがって、何かについて「わかりやすい説明」を受けたときは、
その背後にたくさんの「わからないことがある」と考えておいた方がいい。
何かを「知るということは、もっと知らないことがあるとわかるということ」です。
だから「何も知らない人ほど何でも分かっている気になる」のです。

まさに「知らぬが仏」。主観的には全知全能、客観的には無知無能です。
実はこれ、心理学で言うところの、生まれたての赤ん坊の状態なんです。
人としてこれほど恥ずかしい状態が他にあるでしょうか?

子供がそういう状態であることに気づかずにいる親御さん方、
「子供は褒めて育てる」なんていう「わかりやすい」子育て理論に安易に乗っかってはいませんか?
本当に我が子の将来を考えるのであれば、心を鬼にすることも必要なんじゃないですか?

赤ん坊が、自分が全知全能ではないと気づくのは、望むときに望むようにお乳が与えられなかったり、
気持ち悪いのになかなかオムツを取り替えてもらえなかったり、そういうストレスやフラストレーションを通じて
「どうやら世界は自分の思い通りにはならないらしい」と感じるからです。

赤ん坊でなくても、人間が成長するうえで、
ストレスやフラストレーションを感じないなんてことが果たしてあり得るでしょうか?
「褒めて育てる」ということが、子供が何のストレスも感じないように、
その子のあるがままの状態をただ肯定してやるということなのであれば、
そもそも教育なんて必要ないのではありませんか?
本来「褒める」というのは「努力したことへの称賛」であるべきではないのですか?
何の努力も苦労もしていないのに褒めるのは「おだてる」というのではないですか?

かように、実は「わかりやすい」ということに潜む危険は大きいものです。
世の中に蔓延する「わかりやすい」=「耳障りのよい」話には、皆様どうか御用心を。




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